1945年 8月15日、太平洋戦争終結。 1947年 1月、エクセム神父との関係を疑われ、アサンソールへ移動。/7月、誤解が解けてカルカッタに戻る。/8月15日、インド独立。  マザー・テレサの霊性はいくつかの特徴を持っていますが、今回は彼女自身の言葉を使って「喜びの使徒」としての霊性と、最近注目を集めている「暗闇の聖人」としての霊性の2つの側面から光を当ててみたいと思います。, 1.マザー・テレサの生涯 1948年 8月8日、教皇ピオ12世、マザーが院外居住生活に入ることを許可。  ○参考人(中村哲君) お答えします。自衛隊派遣によって治安はかえって悪化するということは断言したいと思います。これは、米軍、NATO軍も治安改善ということを標榜いたしましてこの六年間活動を続けた結末が今だ。これ以上日本が、軍服を着た自衛隊が中に入っていくと、これは日本国民にとってためにならないことが起こるであろうというのは、私は予言者ではありませんけれども断言いたします。敵意が日本に向いて、復興、せっかくのJICA(Japan International Cooperation Agency:日本国際協力機構)の人々がこれだけ危険な中で活動していることがかえって駄目になっていくということは言えると思います。  当時、何人かの聖人たちが私的誓願を立てたことが知られていたこと、アルバニア人の間に「ベサ」という固い約束の習慣があったことが、マザーの私的誓願の背景にあるようです。  ここで、2008年の参議院外交防衛委員会における中村医師(参考人)の発言を読み直してみたい。質問者は自由民主党所属の佐藤正久氏。自衛隊出身の参議院議員で、イラク戦争初期、2004年の自衛隊イラク派遣では第一次復興業務支援隊長を務めた経験がある。 ・「1946年、わたしは黙想をするためにダージリンに向かっていました。その列車の中で、すべてを捨てて、貧しい中でも最も貧しい人々のうちにおられるキリストに仕えるために、キリストのあとについてスラムに出るようにという呼びかけを聞いたのです。わたしには、それが神の御旨であることがわかりました。ですから、キリストについていくほかなかったのです。」 1986年 2月、教皇ヨハネ・パウロ2世、「死を待つ人の家」を訪問。/名古屋・七宝町に修道院開設。 1956年 4月、マザー、ピカシー神父に霊的苦しみを告白。 この体験以降、マザーはたびたびイエスの声を聞いたり、ビジョンを見たりするようになりました。そのときの様子は、マザーがペリエール大司教に宛てた手紙の中に詳細に記されています。拙訳、『マザー・テレサ書簡集』、ドン・ボスコ社刊に収められていますので興味のある方はお読みください。 ・『わたしはあなたを忘れない マザー・テレサのこころ』、ドン・ボスコ社、2001年。 1990年代まで鎖国、鎖国中に世界初の無神国家を宣言、国民の半数がネズミ講にひっかかり国家破綻、この分けのわからない歴史の持ち主はアルバニアだ!今回は、このとんでもないアルバニアの歴史「鎖国・無神国家・ネズミ講で国家破綻」の3つを解説します。, 本記事ではコソボ紛争とNATOのセルビア空爆について、分かりやすく解説しています。日本に住んでいると中々、紛争や民族の争いに関わる機会がないので、本記事を通じて生々しい現場をお伝えできればと思います。, バルカン半島&ユーゴスラビアの全11カ国を1ヶ月半に渡って旅行してきたので、その総集編としてこの地域を旅行する方々向けに、効率的に各国を周る経路、各国の歴史や観光名所などをまとめてみました。, アルバニアインターナショナル―鎖国・無神論・ネズミ講だけじゃなかった国を知るための45カ国 (共産趣味インターナショナル VOL 1).  そのことに気づいたイエスは、弟子たちに自分が行ったパンの増やしの奇跡のことを思い出させました。パンを与えてくださるのは神様で、もし神様に信頼しているならば食べ物のことで心配する必要はないということを、イエスは弟子たちに気づかせたかったのでしょう。そして、一番大切なのは神様にすべてを委ねて、ただ神様の御旨を行うことだと悟ってほしかったのだと思います。イエスが弟子たちを叱るのに使った言葉は、エレミヤ書5章などからの引用だと考えられます。, 《マザー・テレサの霊性》 ・「パドマ・シュリとマグサイサイは、多くの人、特に政府関係者が教会のインドに対する愛を知るために役立つでしょう。宣教師は、教会がその国に送ることができる最高の贈り物なのです。」 1960年 7月、ロス・アンジェルスで講演。初の海外講演。 ①年譜 1946年 8月16日、カルカッタ大虐殺。 ・「わたしの両親はアルバニア人です。第一次世界大戦の前に、その頃まだユーゴスラビアではなく、そして今はもうユーゴスラビアではない場所で生まれました。多くの意味で、わたしは自分の国を持たないとはどういうことかを実感しています。」 (2) ロレット修道会入会からスラム街に出るまで バチカン放送ほかによると、3月15日、バチカンで開かれた枢機卿会議において教皇フランシスコは、マザー・テレサほか4人の列聖を承認する教令に署名しました。 マザー・テレサは1910年、現在のマケドニア・スコピエ生まれ。 ・Chawla, Navin, “Mother Teresa –The Authorized Biography”, Penguin Books, 1993.  ○佐藤正久君 PKOについては、国連の第二代総長のハマーショルドさんが、PKOは軍人の仕事ではないけれども、軍人でなければできない仕事だというふうなことを言われました。(中略)昨年末に民主党の方々が提案されたテロ根絶法案(※2007年10月17日に衆議院に提出された与党の新テロ対策措置法への対案として、2008年1月11日の参議院本会議に民主党が提出したアフガニスタン復興支援特別措置法案。当時の与党、自民党と公明党がアフガン本土は危険地帯ということで反対したが、わずか2票差で可決された。その後、第170回臨時国会において2日間の審議を経て衆議院で否決され2008年10月21日に廃案となった)という中でも、そういう発想の下に、自衛隊が活動するという場合もあるという前提で自衛隊をアフガニスタン本土で民生支援を行うということも踏まえた法案を出されたと思います。そこで、中村参考人にお伺いしますけれども、(中略)自衛隊が治安維持ではなく民生支援という形で現地に入るということについて、どういう要領であれば非常に現地の方々とマッチングするのか、絶対マッチングしないとお思いなのか、その辺りをお聞かせ願いたいと思います。 ①年譜 ・「わたしは、愛と魂を求めるイエスの渇きを癒すことによって聖人になりたいです。もう一つの大きな望みは、わたしたちの会から多くの聖人を母なる教会に送り出すことです。」 ⇒この映画と、同時に発売された同じタイトルの本のために、マザー・テレサの名前は世界中に知れ渡りました。 ・「イエスの渇きだけが、イエスの渇きを聞くこと、感じること、心を尽くしてそれに応えることだけが、マザーが去った後もこの会を生き生きとしたものにするでしょう。それがあなたたちの生活となるなら大丈夫です。いつかマザーがあなたたちのもとを去るときも、イエスの渇きは決して去っていきません。貧しい人々の中で渇いているイエスは、いつもあなたたちのそばにいるのです。」 ☆今回は年譜作成だけで時間切れになってしまいました。次回、必ず霊性の本体に入りたいと思います。, 《参考文献》 1942-43年 ベンガル大飢饉で2,000,000人以上が死亡。 ⇒マザーはこのとき、数年来心のうちに隠していた霊的な苦しみを初めて他人に打ち明けました。 1984年 10月13日、ニューヨークにて「神の愛の宣教者会」司祭会創立。 2020-01-14, 出版ジャーナリスト 原山建郎  2016年3月まで、武蔵野大学文学部非常勤講師、文教大学情報学部非常勤講師。専門分野はコミュニケーション論、和語でとらえる仏教的身体論など。 2020-07-28, 連載 ⇒意外なことかもしれませんが、1912年の第一次バルカン戦争までマケドニアはオスマン・トルコ帝国の支配下にありました。マザーは、イスラム教の帝国で生まれたのです。 2020-08-11, 連載 ・「今日、わたしはいいことを学びました。貧しい人々の貧しさは、非常に厳しいものだということです。部屋を探して歩き回っていたとき、わたしは足と腕が痛くなるほど歩きに歩きました。わたしはそのとき、貧しい人々の体と心が、家や食べ物、助けを求めているときに同じような痛みを感じているに違いないと思ったのです。そのとき、誘惑が起こってきました。ロレットの宮殿のような建物が、こころの中に入り込んで来たのです。…これは、修道会が誕生する前夜の闇なのでしょう。」 マザー・テレサの真実.  九州大学医学部を中村医師と同年度に卒業したT医師が、「ひそかに、ノーベル平和賞をもらって欲しかった人でした。合掌」と書いてこられたが、ほんとうに残念(※ノーベル賞は死亡している人は授賞対象にならない)である。私たちは中村医師〈いのち〉のことばを、どう受け継いでいけばよいのだろうか?  1965年 2月1日、「神の愛の宣教者会」教皇庁立の修道会となる。/ベネズエラのココロットに、海外で初の修道院を開くためシスター・ニルマラらを派遣。 1942年 4月、「神が望むものを拒まずに差し出す」という私的誓願宣立。 ⇒マザーのこの決定は、全世界の共労者に衝撃を与えました。マザーは、共労者たちが寄付金を使って会議をしたり、旅行したりすることに不満を感じていたようです。 1931年 5月25日、ロレット修道会での初誓願。修道名はテレサ。カルカッタに移動して、セント・メリー・ベンガル中等学校の教員として働く。 ⇒日本軍がインド方面に侵攻してきたことで引き起こされた非常に困難な状況の中で、マザーの無私な奉仕の精神はひときわ輝いていたようです。当時の彼女の様子を知る同僚の修道女は、「マザーはまったく無私の人でした。彼女の自己犠牲は人並みはずれていました。神様への愛のためなら、彼女はどんなことでもし、どんな辱めや苦しみにも耐えたのです」と証言しています。 戦国時代の武将、高山右近は豊臣秀吉によるキリシタン弾圧により領地を失い、加賀藩に身を寄せた後、最終的に日本からフィリピンに追放され、1615年に客死します。殉教者として2017年2月7日、大阪城ホールで列福されました。, 2008年11月24日、長崎市で「福者」に列せられた、17世紀前半に全国各地でいのちを絶たれた188人の殉教者の記録です。, 1506年スペイン生まれ。イグナチオ・ロヨラらとともにイエズス会を創設。1549年に日本にキリスト教を伝えた宣教師。51年に離日し、翌52年に中国・上川島で没しました。2006年の生誕500周年にまとめられた資料です。, インドの貧しい人々とともに働き、「神の愛の宣教者会」を設立し、その活動は全世界に及びました。1997年に没した後、03年に福者、16年には聖人に列せられました。, 1597年2月5日、長崎・西坂において十字架刑に処せられ、最初の殉教者となった26人の司祭、修道士、信徒は、1627年に教皇ウルバノ8世により福者に、1862年、教皇ピオ9世によって聖人に列せられました。この「日本26聖人」のうち、5人はスペイン人、1人はポルトガル人で、残りの20人が日本人です。, Tel 03-5632-4411 (代) / Fax 03-5632-4453 (代). マザー・テレサ(Mother Teresa, 1910年8月26日 - 1997年9月5日)、あるいはコルカタの聖テレサ(Saint Teresa of Calcutta)は、カトリック教会の修道女にして修道会「神の愛の宣教者会」の創立者。またカトリック教会の聖人である。本名はアルーマニア語でアグネサ/アンティゴナ・ゴンジャ・ボヤジ(Agnesa/Antigona Gongea Boiagi)、アルバニア語でアニェゼ/アグネス・ゴンジャ・ボヤジウ(Anjezë/Agnès Gonxha Bojaxhiu)。 1953年 2月、現在のマザー・ハウスに移動。 【プロフィール】 「神の愛の宣教者会」を創設し、貧困層を救うための活動・施設を展開。世界規模の団体へと成長させた。キリスト教・カトリック教会では聖人の一人とされる。.  ところが中村医師の死から1カ月後(1月3日)、イラン革命防衛隊司令官が米軍の爆撃で殺害され、イランはその報復としてイラクに駐留するアメリカ軍の拠点を十数発のミサイルで攻撃した。そして、あろうことか、民間の旅客機がイラン革命防衛隊のミサイル誤射で撃墜されるという、未曽有の大惨事を引き起こした。このように米国とイランの軍事的緊張が続く中、河野防衛大臣は1月10日、海上自衛隊に中東への派遣命令を出した。表向きは「日本関係の民間船舶のシーレーン航行の安全を守る」だということらしいが、中東の湾岸諸国は、米国主導の「有志連合」の側面的・間接的なエール(声援)と受け止めるのではないか。日本はこれまでにも、PKO(Peacekeeping Operation:国連平和維持活動)を行ってきたというが、現地の人たちの目に自衛隊の民生支援活動は、どう映っていたのか? ⇒黙想を指導に来たイエズス会のノイナー神父にも、マザーは霊的苦しみを告白しました。ノイナー神父の指導によって、マザーは10年来苦しんできた霊的苦しみを、イエスの望みとして受け入れることができました。  中医学や日本漢方など東方医学では、痛みなどつらい症状の軽減(対症療法)させる治療を「標治(ひょうち)」、病気の原因をさぐって体質改善(根本療法)をはかる治療を「本治(ほんち)」というが、中村医師はアフガニスタンの人びとの「病い」の治療だけでなく、水と大地から「民(の暮らし)」を呼び戻し、武器を捨てて鍬を手にした人びとの力で「国(農業立国)」を「本治」へといざなう「上医」であった。 1959年 4月12日、最初のシスターたちが最終誓願宣立。  出版ジャーナリスト・武蔵野大学仏教文化研究所研究員・日本東方医学会学術委員 1967年 3月、「神の愛の宣教者会」男子会創立。 ブログを報告する, ・「道に出ると、あちこちに死体が横たわっていました。そのとき、兵士を満載したトラックがわたしの前に止まり、道に出てはいけないと言いました。…兵士たちは米を持っていました。彼らはそのままトラックで学校までわたしを連れて帰り、米の袋をわたしたちのために置いて行ってくれました。」, このころ(1949年から1950年頃)から、その後50年に渡って続くマザーの霊的苦しみが始まる。, ・「今日、わたしはいいことを学びました。貧しい人々の貧しさは、非常に厳しいものだということです。部屋を探して歩き回っていたとき、わたしは足と腕が痛くなるほど歩きに歩きました。わたしはそのとき、貧しい人々の体と心が、家や食べ物、助けを求めているときに同じような痛みを感じているに違いないと思ったのです。そのとき、誘惑が起こってきました。ロレットの宮殿のような建物が、こころの中に入り込んで来たのです。…これは、修道会が誕生する前夜の闇なのでしょう。」, ・「最初わたしが死にそうになったとき、聖ペトロは天国にはスラムがないからと言ってわたしが天国に入るのを断りました。ですが、今、天国はスラムの人たちで一杯なはずです。」. 1979年 「神の愛の宣教者会」男子観想会創立。 ・Kolodiejchuk, Brian, “Mother Teresa –Come Be My Light”, Doubleday, 2007.  修道女は私一人。誓いも規則も何もありません。ただ「これこそ自分にとってのカルカッタだ」と思うことのために、できる限りの努力をするということだけが唯一の規則です。 2020-06-09, Copyright©2020 postycorpration Inc. All Rights Reserved, 喉の乾いた人に 水を持って来てあげる それは一時的な手助け(対処療法)/喉の乾いた人に 水道や井戸の場所を教えてあげる それは長期的な手助け(根本治療)/一時的に痛みを取ってあげる治療などより、日常の生活を見直して痛みの出ない生活にする/その方が 長期的に患者さんの役に立つ, ○佐藤正久君 PKOについては、国連の第二代総長のハマーショルドさんが、PKOは軍人の仕事ではないけれども、軍人でなければできない仕事だというふうなことを言われました。, という中でも、そういう発想の下に、自衛隊が活動するという場合もあるという前提で自衛隊をアフガニスタン本土で民生支援を行うということも踏まえた法案を出されたと思います。そこで、中村参考人にお伺いしますけれども、, 自衛隊が治安維持ではなく民生支援という形で現地に入るということについて、どういう要領であれば非常に現地の方々とマッチングするのか、絶対マッチングしないとお思いなのか、その辺りをお聞かせ願いたいと思います。, ○参考人(中村哲君) お答えします。自衛隊派遣によって治安はかえって悪化するということは断言したいと思います。これは、米軍、NATO軍も治安改善ということを標榜いたしましてこの六年間活動を続けた結末が今だ。これ以上日本が、軍服を着た自衛隊が中に入っていくと、これは日本国民にとってためにならないことが起こるであろうというのは、私は予言者ではありませんけれども断言いたします。敵意が日本に向いて、復興、せっかくのJICA, の人々がこれだけ危険な中で活動していることがかえって駄目になっていくということは言えると思います。, マザー・テレサの話に感激した学生たちが、「自分もカルカッタへ行って働きたい」と申し出たそうです。その時マザーは、その申し出に感謝しつつも、「そう言ってくださるのはありがたいけれど、おそらく日本にも日本のカルカッタがあるはずです。カルカッタまで来なくても、そのような気持ちのある方はどうか日本のカルカッタで働いてください」とおっしゃったそうです。. ⇒先述の、『マザー・テレサ書簡集』に収められていますので、興味のある方はお読みください。 1993年 大分・別府市に修道院開設。 1993年 8月30日、組織としての「マザー・テレサ共労者会」を解散する意向を表明。  マザーがロレット修道会に入ったのは、次のような事情によると言われています。当時、マケドニア地方からたくさんのイエズス会員がインドのビハール州に派遣されていました。所属していた小教区がイエズス会に委ねられた小教区だったこともあり、マザーは彼らが故郷に書いた手紙を目にする機会がたびたびありました。その手紙を通して、インドの貧しさの現実に触れたマザーは、自分もインドで貧しい人たちに神の愛を伝えたいと思うようになりました。教会の司祭にそのことを打ち明けたところ、司祭はイグナチオ霊性を生き、インドでも活動している女子修道会、ロレット修道会をマザーに紹介しました。マザーは、司祭の勧めに従ってロレット修道会に入会することを選びました。 ⇒教皇庁立の修道会になったことで、「神の愛の宣教者会」は海外に宣教師を派遣できるようになりました。最初に派遣された宣教師の1人は、後にマザーの後継者になったシスター・ニルマラでした。 1983年 ローマ訪問中に、心臓の障害が発見される。 ②マザー自身の言葉 20年近く続けた教師生活に別れを告げ、単身スラム街で働き始めたところから始まった彼女の活動は、多くの人の感動を誘います。, 彼女の平和への貢献度は誰の目にも著しく、ノーベル平和賞を始め、多くの賞が贈られました。, テレサの死から数十年経った今もなお、世界123ヵ国に広がった施設でのボランティアに参加する人は多く、彼女は利他の精神を後世に渡って幅広く伝えたといえます。, 他人のために働きたい…という気持ちをもつ人たちのなかで、どうして彼女が特別だったのでしょうか。, 1910年(1歳)東ヨーロッパのコソボ州・ユスキュブにて、この地区では珍しい敬虔なキリスト教徒の両親の間に生まれる。, 1928年(18歳)故郷のユスキュブを離れ、アイルランドにてロレト修道女会に入会。ダブリンで修道女としての基礎教育を受ける。, 1931年(21歳) インドの地に渡り、カルカッタの「聖マリア高等学校」の教師となる。またダージリンにて修道女としての初誓願を行う。このとき修道名を「テレサ」とした。, 1937年(27歳)終生誓願を行い、生涯修道女として過ごすことを誓う。このときから「シスター・テレサ」と呼ばれるようになる。, 1946年(36歳)ダージリンに向かう列車のなかで「もっとも貧しい人のために働きなさい」という神からのお告げを受ける。, 1948年(38歳)ロレト修道会を退会、学校も辞職してカルカッタのスラム街に移り住み、貧しい子供たちのために教室を開くようになる。, 1950年(40歳)教え子たちがボランティアに集まったことや、地域の後押しもあり、テレサが創設した修道会「神の愛の宣教者会」がカルカッタ教区に認可される。この頃から「マザー・テレサ」と呼ばれるように。, 1952年(42歳)ヒンドゥー教の廃寺院を国から譲り受け、修道会の最初のホスピス「死を待つ人々の家」を設立する。, 1965年(55歳)インド全土に修道会の活動が広がったことで教皇により、国外活動の許可が下り、以降世界規模の活動を展開していく。, 1971年(61歳)ヨハネ23世教皇平和賞・ケネディー賞を受賞。その後も平和貢献の証として数々の賞を受賞していく。, 1993年(83歳)骨にひびが入る怪我、マラリアの感染など、健康を著しく害する。この年に心臓病の手術も受けている。, 1997年(87歳)愛の神の宣教者会の総長を辞任。同年、カルカッタのマザー・ハウスにて息を引き取る。, そこから約17年間に渡り、カルカッタの聖マリア女学院にて、上流階級の女学生の教育を行いました。, マザー・テレサの生涯のなかでもっとも大きな出来事といえば、彼女が聖マリア高等学校での教師生活を捨て、単身スラム街で働き始めたことでしょう。, テレサはどうして、慣れ親しんだ生活を捨ててまで、貧しい人たちへの奉仕に身を投じようと思ったのでしょうか。, 当時のインドはイギリスからの独立の影響で、国内のヒンドゥー教徒とイスラム教徒の対立が激化しており、特に混乱を極めた時代にあったのです。, もともと同じ国であったはずのインドとパキスタンは宗教の違いから分断され、領地を巡って印パ戦争が勃発。, 宗教間の対立に反対していたマハトマ・ガンジーも暗殺されるなど、この時代には衝撃的な出来事が立て続けに起こっています。, 死傷者の数も数百万人と多く、その時代背景はテレサの背中を押すには十分なものだったのでしょう。, もっともインドへ移り住むことは彼女自身が選んだわけですから、テレサが自身の意志で混乱の中に身を置くことを選んだといえます。, 1948年から始まったテレサの奉仕活動は、彼女の没年である1997年まで、約49年間に及び、止まることはありませんでした。, 神の愛の宣教者会の設立から、インド全土への広がりを経て、団体が世界へ広がっていく様子から、当初の活動の著しさは見て取れますが、何よりテレサの凄みを感じさせるのは、彼女の晩年の振る舞いにあります。, テレサは70歳を超えた頃から心臓病を患い、ペースメーカーの取り付け手術を行うなど、この頃の状態はとても健康とは言い難いものでした。, 彼女が修道会の総長職の辞任を申し出たのが1990年、ちょうど80歳の頃の話ですから、テレサは好ましくない健康状態の中、10年近くも弱音を吐かずに働き続けていたことになります。, テレサの元で働くシスターたちは、彼女以外に修道会の総長が務まる人物はいないと考え、辞任したテレサを総長の座に引き戻しました。, 修道会が世界へと広がっていく過程のテレサは、それは若さと活力に満ち溢れていますから、事を起こすパワーも十分にもっていたことでしょう。, しかし自らが弱っているときに、他人を想って働くというのは、やはり並大抵の人ができることではありません。, キリスト教カトリックの修道女会では、総長職についた人のことを「マザー」と呼ぶのが通例です。, しかし2代目総長のニルマラは、テレサから総長の座を受け継いで以降生涯、マザーを名乗ることはありませんでした。, この意志は3代目総長のシスター・メアリーにも受け継がれ、彼女もまた、総長にしてシスターを名乗り続けています。, しかし後継者がマザーを名乗らない風習を守り続けているのは、そういった偉業だけでなく、彼女たちがテレサのことを心底慕っていたからではないでしょうか。, テレサの利他の精神は、貧しい人たちだけでなく、共に働く仲間に対しても…いえ、きっと万人に対するものだったのでしょう。, インドを巡る時代背景に突き動かされ、その後自身が没するまで50年近くに渡って行われたマザー・テレサの奉仕活動。, 何よりテレサが総長であり続けることを望む、自身が後継者となっても、「マザー」を名乗ることを拒むなどのシスターたちの振る舞いが、修道会におけるテレサの在り方を物語っています。, 世界中の人々を巻き込んでの奉仕活動は、やはりその人となりをもってしか、成し得ないことだったのではないでしょうか。, ① テレサが過ごした時代のインドは宗教間の対立で混乱を極めていた。その時代背景が彼女を後押ししたのでは…, ③ 「マザー」の名はマザー・テレサにのみ、ふさわしいとされ、後継者たちはシスターを名乗り続けている, マザー・テレサの献身的な姿は、彼女の後継者たちによって…そして彼女に感銘を受けた世界中の人々によって、末永く受け継がれていくことでしょう。, 関連記事 >>>> 「マザー・テレサの「死を待つ人々の家」が作られた背景…活動内容は?」. ⇒ラスファーマンで2ヵ月英語を勉強した後、マザーは船でカルカッタに向けて旅立ちました。 マザー・テレサ. 1910年 8月26日、オスマン・トルコ帝国支配下のバルカン半島、マケドニアのスコピエ市でアルバニア人の両親のもとに誕生。翌日、幼児洗礼を受ける。幼名はアグネス・ゴンジャ。父、ニコラ、母、ドラナフィル、姉、アガ、兄ラザール。 ・Hunt , Dorothy, “Love : A Fruits Always in Season –Daily Meditations by Mother Teresa.”, Ignatius, 1987. ⇒ゴメス家が手狭になったため、マザーは大司教にお金を出してもらってイスラム商人の大きな家を購入しました。それが、今のマザー・ハウスです。 1984年 11月19-25日、3度目の訪日。東京、仙台、岡山、広島、名古屋。 ⇒マザーが「マザー・テレサ」と呼ばれるようになったのはこのときからです。当時、ロレット修道会では終世誓願を立てた修道女を「マザー」と呼んでいました。 1975年 カルカッタに長期療養者のための施設「プレム・ダン」開設。/『タイム』誌の表紙にマザーの肖像が使われる。 1989年 12月、心臓にペースメーカーを装着。 1957年 11年ぶりに母から手紙が届く。 ・Egan, Eileen, “Such A Vision Of The Street –Mother Teresa- The Spirit and The Work”, Doubleday,1985. 1953年 4月、マザー、「神の愛の宣教者会」修道女としての最終誓願宣立。最初のシスターたち、初誓願宣立。アン・ブレーキーを中心に、「マザー・テレサ共労者会」発足。マザーの活動、世間から注目されるようになる。 1912年 第一次バルカン戦争勃発。 ・『聖なる者となりなさい マザー・テレサの生き方』、ドン・ボスコ社、2002年。 ☆上医は国をいやす ⇒戦争中、日本軍がカルカッタを空襲したこともあったそうです。 1914年 第一次世界大戦勃発。 1979年 12月11日、ノーベル平和賞受賞。 2020-10-27, 連載 ⇒イエスの呼びかけを聞くようになって以来、マザーは霊的指導司祭のエクセム神父と頻繁に話すようになりました。事情を知らない周囲の修道女たちは、そのことを怪しみ、長上に報告したようです。半年後、総会長の介入によってこの誤解は解け、マザーはカルカッタに戻ることができました。 1978年 東京の山谷に、「神の愛の宣教者会」のブラザーたちの家が開かれる。 On The Road , ⇒このとき、マザーは「召し出しの中の召し出し」を受けたと証言しています。インドの貧しい人々のために働くよう、イエスから新たな使命を与えられたのです。このときマザーは、イエスが十字架上で「わたしは渇く」と言っているのを聞いたようです。 1962年 4月、インド政府よりパドマ・シュリ賞を受ける。初めての大きな賞。/8月、フィリピンでマグサイサイ賞を受ける。 ⇒マザーの教え子だったスバシニ・ダスが、最初の仲間としてマザーのもとに駆けつけると、次々に教え子たちがマザーのもとに集まってきました。この様子を見て、ロレット修道会からマザーに対して激しい非難の声が上がりました。マザーはもともと、ユーゴスラブ系であることから修道会の中で差別を受けていたようです。 ⇒先述の、『マザー・テレサ書簡集』に収められていますので、興味のある方はお読みください。 1928年 12月1日、インドに旅立つ。  今回から4回にわたって、霊性神学を取り扱いたいと思います。霊性とは、ある人と神様との関係だと考えたらいいと思います。霊性神学とは、霊的に優れた人たちの神様との関わり方を学ぶことによって、そこからわたしたちの霊的進歩に役立つ恵みをいただくための学問です。  西暦454年から473年にかけて書かれた、中国の陳延之の著書『小品方』に「上医医国、中医医民、下医医病(上医は国をいやし、中医は民をいやし、下医は病をいやす)」と書かれている。この言葉は、もともと中国春秋時代を扱った歴史書『国語』晋語八の「上医医国、其次医人」に由来するもので、この「上医は国を医す」という言葉は、すぐれた医者は、国の疾病である戦乱や弊風などを救うのが仕事であって、個人の病気を治すのはその次である、というほどの意味らしい。しかし、中村哲医師が今回、アフガニスタン東部で行った「井戸の掘削、用水路の延伸、取水堰の設置」という〈医療〉行為は、中医(民をいやす)のレベルをはるかに超えて、上医(国をいやす)に価するレベルの〈医療〉ムーブメントであったのではないだろうか。  旅立ちのとき、母のドラナフィルは「イエスの手をしっかり握って、いつでもただイエスと共に歩いて行きなさい。前を向いて歩きなさい。もし後ろを見るなら、あなたは後退することになります」と言ってマザーを見送ったそうです。 (adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({}); ©Copyright2020 歴史上の人物.com.All Rights Reserved. 2020-10-13, 連載 (『再会 夫の宿題 それから』145~146ページ) ②マザー自身の言葉 (参議院会議録情報 第170回国会 外交防衛委員会第4号 2008年11月5日) 1948年 12月21日、「神の愛の宣教者」として初めてスラム街に入る。 マザー・テレサといえば、インドのコルカタで貧しい人たちに社会援助をしたことで有名だ。コルカタに死を待つ人々の家というホスピスを設立して、人種や宗教を問わず、全ての貧しい人たちに愛を捧げ社会援助をした 。, マザー・テレサが亡くなった後でも、その施設には世界中のボランティアが集まり、貧しい人たちに援助の手を差し伸べている。実は私も「死を待つ人々の家」でボランティアをした経験があったので、マザー・テレサについて知っていると思い込んでいた。, しかし、バルカン半島にあるマケドニアという国に来て、どこへ観光に行こうかなとガイドブックを読んでいたら衝撃の事実を知ることになった。私はてっきりマザー・テレサはインドで生まれたインド人だとばかり思っていたからだ。さてその衝撃の事実とは一体なんでしょう。, マザー・テレサは、バルカン半島にあるマケドニアという国の首都スコピエで生まれたのだ。まさかマケドニアに旅行に来て、マザー・テレサという単語が目に飛び込んでくるとは思わなかった。, マケドニアの首都スコピエは世界一奇妙な街!?その実態に迫る。という記事を書くほど変わった街ではりますが、現地の人たちはマザー・テレサの出身国ということを誇りに思っています。, また、マケドニア共和国の呼称問題・国旗問題について解説します!を読むとマケドニアに対する理解が深まるはずです。, マザー・テレサが生まれた1910年は、オスマン帝国(現トルコ)がマケドニアを征服していた時代です。この当時、マケドニアは大飢饉で襲われていて、カトリック修道院の修道女だったマザー・テレサはこれを見て「最も貧しい人たちの元で社会貢献をする」と決断したのだ。その後、飢えと貧困に最も苦しんでいるインドへ行き活動を始めました。, ちなみに、マザー・テレサの本名はアグネス・ゴンジャ・ボヤジュ。実はマザー・テレサの「マザー」は地位がある修道女への敬称、「テレサ」は洗礼名なのだ。それでは、スコピエにあるマザー・テレサ記念館を見てみましょう。, マザー・テレサはマケドニアで生まれたがアルバニア人である。アルバニアという国はあまり聞きなれないが、調べてみると面白い。1990年代まで鎖国をしていたり、国民の半数以上がネズミ講に騙され国が破綻したり、世界初の無神国家宣言をしてみたりと、とんでもない国なのだ。, アルバニア人たちもマザー・テレサを誇りに思っていて、アルバニアの首都ティラナにはマザー・テレサ空港やマザー・テレサ広場なんかがあります。また、アルバニア人が住んでいるコソボにも、マザー・テレサの銅像があります。アルバニア人の歴史については下記記事にて触れています。, ノーベル賞を受賞しただけあって、出身国や同人種、果ては世界中からボランティアや修道女の鏡として尊敬されています。マケドニアで生まれたアルバニア人ということには驚きましたが、マザー・テレサは国籍や人種など関係なく平等に人に接しています。, このようなボランティアや社会貢献精神を持った人が今後多く出てくると、世界平和へ一歩前進できるかもしれません。マザー・テレサの人生については、書籍に詳細が載っているのでこれを機会に読んでみては。, マケドニアの首都スコピエという街に行ってきました。マケドニアがどういう国なのか、どういった歴史がある, マケドニア共和国の首都スコピエに行ってきました。マケドニア共和国と言われても、殆どの日本人が場所や首.  鍼灸専門学校で教えていた時代の学生で、現在は鍼灸師として活躍中のTさんは、コラムで紹介した「衣食足って礼節を知るといいますけれども、まずみんなが食えることが大切だ」という中村医師のことばから、東方医学的な治療の観点をふまえて、「喉の乾いた人に 水を持って来てあげる それは一時的な手助け(対処療法)/喉の乾いた人に 水道や井戸の場所を教えてあげる それは長期的な手助け(根本治療)/一時的に痛みを取ってあげる治療などより、日常の生活を見直して痛みの出ない生活にする/その方が 長期的に患者さんの役に立つ」と考えながら読みました、という返信メールを寄せてくれた。 2020-08-25, 連載 ⇒ローマで黙想指導に来た「聖心の司祭会」のマイケル・ヴァン・デア・ピート神父にも、マザーは霊的な苦しみを告白しました。  作家の故遠藤周作夫人でエッセイストの遠藤順子夫人は、自著『再会 夫の宿題 それから』(PHP文庫、2002年)第四章「日本人の心に届くキリスト」の中で、このときのエピソードを紹介している。 1981年 4月22-28日、初の訪日。東京・大阪。/4月24日、東京に修道院開設。 ⇒1981年に始まった、聖なる司祭を教会に送るための運動「コーパス・クリスティ運動」は、司祭の修道会へと発展していきました。オブレット会出身のジョセフ神父が、司祭会の初代総長に選ばれました。 マザー・テレサが生まれた1910年は、オスマン帝国(現トルコ)がマケドニアを征服していた時代です。この当時、マケドニアは大飢饉で襲われていて、カトリック修道院の修道女だったマザー・テレサはこれを見て「最も貧しい人たちの元で社会貢献をする」と決断したのだ。 ①年譜 ・『愛する子どもたちへ マザー・テレサの遺言』、ドン・ボスコ社、2001年。 ②マザー自身の言葉 1949年 2月、ゴメス家の3階に間借りする。/3月19日、シスター・アグネス、マザーの活動に参加。/12月、インド国籍取得。 1929年 1月6日、インドに到着。ダージリンで修練期に入る。 1993年 8月30日、組織としての「マザー・テレサ共労者会」を解散する意向を表明。 ⇒マザーが帰天したとき、自由主義諸国も共産圏の国々も、こぞってマザーのために追悼文を発表しました。インド政府は、マハトマ・ガンジーやジャワルハラル・ネルーの葬儀に使った台車をわざわざデリーの博物館からカルカッタに運び、マザーの遺体を運搬するのに使いました。各国から、元首の婦人クラスの人々が葬儀に参列しました。日本からは、当時の衆議院議長、土井たか子氏が出席しました。 ①年譜 マザー・テレサが生まれた1910年は、オスマン帝国(現トルコ)がマケドニアを征服していた時代です。この当時、マケドニアは大飢饉で襲われていて、カトリック修道院の修道女だったマザー・テレサはこれを見て「最も貧しい人たちの元で社会貢献をする」と決断したのだ。 1992年 アメリカ・サンディエゴで心臓の手術を受ける。 1975年 10月、マイケル・ヴァン・デア・ピート神父に霊的苦しみを告白。 ⇒マザーは、イエスに呼ばれている以上失敗はありえないと確信して、還俗の許可を教皇様に求めました。しかし、教皇様はマザーに、とりあえず修道女のままで1年間だけ貧しい人たちのために働く許可を与えました。 マザー・テレサがキリストからの啓示を受けた時にキリストは「I Thirst(私は渇く)」と語りかけました。 このマザー・テレサの原体験とも言える体験についてマザーが語られたことやマザーの手紙をもとに記された書籍です。  マザーは、アサンソールでイエスと共に静かに過ごす恵みのときを過ごすことができたと後に回想しています。アサンソールで過ごした日々は、マザーにとって「霊的苦しみ」の時期に入る前に与えられた、つかの間の至福のときだったようです。 1941年 12月8日、太平洋戦争勃発。  昨年末、前回のコラム「中村哲医師、〈いのち〉のことば――100の診療所より1本の用水路。」の末尾に「上医は国をいやす」と題する一文を加えた原稿を、何人かの友人や知人にメールで送った。 ⇒マザーは、最後のときまでこの誓願を忠実に守りとおしました。神の望みに対して、マザーは一度も「いいえ」と答えたことがありませんでした。マザーがせっかちだったのも、神の望みにすぐ応えたい一心からだったと言われています。 ⇒18歳のとき、マザー・テレサはマケドニアを離れ、アイルランドのラスファーナムで「ロレット修道会」に入会しました。ロレット修道会は、女性であってもイエズス会員のように教会に奉仕したいと望んだ修道女、メリー・ウォードによって17世紀に創立された修道会です。  1946年長野県生まれ。1968年早稲田大学第一商学部卒業後、㈱主婦の友社入社。『主婦の友』、『アイ』、『わたしの健康』等の雑誌記者としてキャリアを積み、1984~1990年まで『わたしの健康』(現在は『健康』)編集長。1996~1999年まで取締役(編集・制作担当)。2003年よりフリー・ジャーナリストとして、本格的な執筆・講演および出版プロデュース活動に入る。  いま、私たちに求められているほんとうの支援とはなんだろうか? 私たちは中村医師のアフガニスタンでの献身的な活動に心を打たれるが、アフガニスタンで同じ活動をすることは、たぶんできないだろう。 2020-06-23, 連載 1996年 心不全で入退院を繰り返す。 マザーテレサとは、名前だけは知っていても、どんな人でどんな活動をしていた人なのかということまでは分からないという人が多いのではないでしょうか。 マザーテレサには生涯を通して取り組んだ活動や名言、心を揺さぶる言葉などが数多く存在します。 この記事ではマザーテレサのことについてや、数々の名言についてご紹介していきます。 ⇒マケドニアが共産圏に入ったことから、1946年以来マザーは母ドラナフィルと連絡を取ることができませんでした。ドラナフィルは、1948年にマザーが修道会を出たと聞いたあと何の知らせもなかったので、マザーが死んだものと思っていたようです。 1997年 3月、シスター・ニルマラ、マザーの後継者に選ばれる。5月、最後のローマ、ニューヨーク訪問。9月5日午後9時半、カルカッタのマザー・ハウスで帰天。死因は、呼吸困難と多臓器不全。このときまでに、「神の愛の宣教者会」活動は世界123国に広がり、シスターの数は3,914人になっていた。9月13日、ネタジー室内競技場にて国葬。マザー・ハウスに埋葬。 1969年 マルコム・マゲリッジ、映画『すばらしいことを神様のために』を公開。 ・「道に出ると、あちこちに死体が横たわっていました。そのとき、兵士を満載したトラックがわたしの前に止まり、道に出てはいけないと言いました。…兵士たちは米を持っていました。彼らはそのままトラックで学校までわたしを連れて帰り、米の袋をわたしたちのために置いて行ってくれました。」 1913年 第二次バルカン戦争勃発。 ・「わたしが世間にとって何ものでもなく、またわたしにとって世間が何ものでもないように、どうぞお祈りください。」 1961年 4月、マザー、ノイナー神父に霊的苦しみを告白。ノイナー神父の霊的指導によって、霊的苦しみを受容。 2020-07-14, 連載 《今日の福音》マルコ8:14-21 1955年 「子どもたちの家(シシュ・ヴァバン)」開設。 ・「はじめの頃、わたしがまだ12歳から18歳頃までは、修道女になりたくありませんでした。わたしたちの家族はとても幸せだったからです。でも18歳のときに、家を離れて修道女になる決心をしたのです。それ以来40年間、一瞬たりとも自分のしたことが正しかったかどうか疑ったことはありません。それは、神の御旨だったのです。神がお選びになったのです。」 愛と慈しみの象徴「マザー・テレサ」この名前を知らないという人は、世界中探してもほとんどいないのではないでしょうか。インドを中心に世界の貧しい人たちのために生涯をかけて奉仕し、無償の愛と慈善の心をその身を持って体現した、世界で最も偉大な人物の 1948年 8月17日、5ルピーをだけもって、院外居住生活に入る。/パトナの聖家族病院で、基礎的な医療技術を身につける。  原山 建郎(はらやま たつろう)  ①年譜 (5)ノーベル平和賞受賞から帰天まで ・Muggeridge, Malcolm, "Something Beautiful For God", Fount, 1971. ⇒第三修練のためカルカッタを訪れていたイエズス会のアンドリュー神父は、マザー・テレサから依頼されて「神の愛の宣教者会」にブラザー部門を創立する決意をしました。
2020 マザーテレサ 何人