ブルーインパルス情報 ★2004年10月6日国際航空宇宙展における展示飛行 ★6/4埼玉スタジアムにおけるワールドカップ日本初戦において、ブルーインパルスがダイヤモンドローパスを披露しました。 window.dataLayer = window.dataLayer || []; ブルーインパルスとは、宮城県の松島基地、第4航空団に属する第11飛行隊の事です。 飛行機の性能アップとパイロットの技術向上のため、アクロバット飛行を行っている隊である事は皆さんも知っていると思います。 航空祭や各地のイベントで、展示飛行を見せてくれるブルーインパルス! 「飛んでる飛行機ってなんていう名前なの?」 「戦闘機なの?」「速さや特徴は何?」などなど・・・ 見てるといろいろ疑問が湧いてきますよね? 今回はブルーインパルスの機体・歴代機体についてご紹介します。 【ブルーインパルス】そう呼ばれている、熱狂的なファンを持つアクロバットチーム。 機体が青いから「ブルーインパルス」? いえ、ブルーインパルスだから、機体が青いのです!(・・・たぶん) そのブルーインパルスとは・・・ 引用元:航空自衛隊HPより 航空自衛隊の存在を知ってもらうためのアクロバット専門チームのことなんですね。 1958年の浜松北基地(現在の浜松基地)の開庁記念式典でアクロフライトを披露され … 観てる体感速度で言うと、Red Bull Air Race(370㎞)のほうが低空飛行の分速く感じるね。実速度はブルーインパルスのほうが倍くらい早いけど。」 友人「全国周ってるのはいいすね」 私「まあ近くに来たら見てみるってのもいいかもね。 ブルーインパルスのパイロットが使う周波数は? サーカス、イルミネーション、イベントが大好きな人、そうじゃない人にも色々ご紹介していきます。, 【2020年】日帰りオススメイベント一覧(少しリッチなデート/ 誕生日プレゼント), ブルーインパルス編隊飛行、ブルーインパルスの速度は?機体情報、過去の事故情報は?@みなとみらい, B MONSTER行ってきました。効果は出るのか?無料トライアル、こんな人におすすめ 口コミ/感想@新宿 池袋, 【絶響公演】マイケルジャクソン・ムーンウォーカー上映はどんなイベント?@【2018】お台場Zepp Tokyo, 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1980年頃の航空自衛隊では、戦闘機を目指す学生は、レシプロエンジンのT-3初等練習機による第1初級操縦課程(70時間)ののち、ジェットエンジンのT-1A/B中間練習機による第2初級操縦課程(80時間)、T-33A練習機による基本操縦課程(100時間)を経て、T-2高等練習機による戦闘操縦課程(100時間)に進むという教育課程となっていた[2]。しかし、T-33・T-1A/Bはいずれも前世代の機体であり、長く使い続けることは難しかった。特にT-33Aは航空自衛隊の創設時から使用されている機体であり、製造後既に25年を経過、平均飛行時間は6,000時間に達し、経年劣化による不具合も頻発するようになっていた。またジェット戦闘機の原点といえる機体であったために、飛行特性も後発の機体とは大きく異なり、「航空自衛隊で最も操縦が難しい機体である」と評する教官までいる状況であった[3]。, このことから、1975年より、技術研究本部では、航空自衛隊の次期中等練習機を必要な時期に国内開発できるように研究を進めており、各社も独自の検討を進めていた。そして1980年3月31日、航空幕僚監部は次期中等練習機の開発要求書を提出し、昭和55年度中には、国内開発を行うことで防衛庁内で合意に達した[4]。そして防衛庁が提示した提案依頼書(RFP)に対し、1981年5月29日には川崎重工業・三菱重工業・富士重工業の機体メーカー3社が応募した。各社の案を技術研究本部で比較審査した結果、同年9月4日、川崎重工業の案が採択された[3]。, 開発にあたっては、川崎重工業を主契約企業(分担率4割)、協力企業を三菱重工業・富士重工業(同各3割)として、航空工業界の総力を結集した「挙国一致」の体制となった[3]。1981年10月26日、新中等練習機"MT-X"の基本設計契約を防衛庁と川崎重工で結んだ[5]。川崎重工業では、岐阜工場内に、他社からの派遣人員も含めて100名体制の中等練習機設計チーム(MTET)を設置した。また技術研究本部でも、技術開発官(航空機担当)の下に30名体制の中等練習機プロジェクト・チームを編成した[4]。, 従来、新中等練習機は便宜的に"MT-X"と通称されていたが、1982年6月10日に防衛庁長官の承認を受けた技術研究本部の「57年度技術研究実施計画」よりXT-4と称されるようになった。技術研究本部の審査を経て、10月29日には川崎重工から技術研究本部にXT-4の基本設計書が納入された。この時の空自の要求性能は、全長12.6m、全幅10.0m、全高4.2m、全備重量5,500kg、エンジン推力1,660kg×2、最大速度マッハ0.9、実用上昇限50,000ft、失速速度90kt、航続距離700海里であった[5]。12月28日に発注された「XT-4中等練習機試作(その1)」を端緒として、昭和61年度までに3次に渡る試作が重ねられた[3]。これによって製作された試作機1号機(56-5601)は1985年7月29日に初飛行し、同年12月12日に防衛庁に納入[5]。以後、4機の試作機を用いて技術研究本部および空自の航空実験団で試験が行われた。これらの実績を踏まえて、1988年(昭和63年)7月28日に防衛庁長官の部隊使用承認を受けて、T-4として量産が開始された[4]。, 本機の設計は、川崎のKA-850をベースとしており、KA-851と称されていた[1]。設計段階からコストコントロールに力を入れ、低い開発費と量産価格、経済的な飛行運用コストパフォーマンスを目標とした[4]、デザインツーコスト手法を採用した[6]。, 主要構造はアルミニウム合金、一部はチタン合金製とされる一方[1]、厳しい要求性能を満足させるため、垂直尾翼・舵面・フラップ・エアブレーキなどにはCFRPやAFRPなどの複合材料を使用して軽量化を図っており[7]、適用範囲は構造重量の約4.5パーセントとされた[8]。特にここで実用化された「複合材一体成型構造」は、FS-X(後のF-2)につながる「複合材一体成型主翼構造の研究」の素地ともなった[9]。設計にあたっては損傷許容設計(DTD)の概念が導入され、フェイルセーフとあわせて安全性の向上が図られている[3]。, 主翼は中翼配置で、低速から高速までの広い飛行範囲において良好な飛行特性を発揮できるよう、新しい遷音速翼型(スーパークリティカル翼型[1])が採用された。また機体形状の空力的洗練が図られており、各部が丸みを帯びた形状にまとめられている。設計上、特に重視されたのは、遷音速での良好な飛行特性と、高迎え角時の運動性確保の2点であった。また操縦性安定性はMIL-F-8785のクラスIに準拠している[3]。, コクピットはタンデム配置の複座で、訓練生が前席、教官が後席に搭乗する。前・後席で、アイポイントで270ミリの段差がついており、前席で13度下、後席で3度下の前方視界が得られる。射出座席はステンセルSIIIS-3ERで、ダイセルがライセンス生産している[10]。射出の際には、キャノピーに仕込まれた細い導爆線(MDC)を起爆して切れ目を入れて、座席上部のキャノピー・ブレーカーでこれを突き破る方式となった[11][3][注 1]。キャノピーは右横開きで、三菱レイヨン製のワンピース構造とされた[10]。事業用操縦士に必要な計器飛行の訓練もT-4で行われるが、飛行計器のみを見なければならない訓練中に外部を見てしまうのを防ぐため、訓練生が座る後部座席には視界を遮るカーテンとレールを取り付けることが可能である[12]。, また新しい試みとして、機上酸素発生装置(OBOGS)の採用がある[13][11]。従来の液体酸素にかわり、エンジンのコンプレッサー抽気から窒素を吸着することで酸素を取り出してコクピットに供給するもので、液体酸素の補給作業が不要になることでターン・アラウンド時間が短縮できるほかにシステムが簡略化されて軽量化を図ることができるメリットがあった[3]。, T-2の開発の際、アドーアエンジンの低信頼性に苦しんだことから、XT-4のエンジンには、米軍規格に基づく高い信頼性の確保が要求された[8]。川崎重工では、機体規模・構成が近いアルファジェットで採用されていたスネクマ/チュルボメカ ラルザックを提案していたが、1982年10月29日の決定により、国産のXF3ターボファンエンジンが採用された[3]。, 本機で採用されたF3-30は、1975年より、技術研究本部の第3研究所が石川島播磨重工業(現・IHI)を契約会社として開発してきたXF3-1の推力向上・量産機であった[4]。9月までにC-1 FTB機による第一期空中試験を終えており、1983年12月までに予備飛行定格試験(PFRT)を完了して、1984年2月には試作機搭載用エンジン3機分10台が発注された[3]。, 最大速度はマッハ0.9とされている。海面上昇率は10,360フィート毎分を目標としており、T-1やT-33のほぼ倍となった。これは訓練環境への適合性の必要から、訓練空域への往復時間の短縮が求められたものであった。また第13飛行教育団への配備が予定され、滑走路長3,380フィート (1,030 m)の芦屋基地での運用が見込まれたことから、離陸距離2,700フィート (820 m)・着陸距離2,500フィート (760 m)が要求された[3]。, また基地から遠い訓練空域までの往復が想定されたことから、訓練効率の向上のために高い航続性能が要求された。機内燃料搭載量は約600ガロンと、西欧の同種機体よりも多くされた[注 2]。また新明和工業により、120ガロンの増槽も開発された[3]。, カラーリングは、ほとんどの機体はT-2よりも濃い灰色で、主翼や尾翼の端は視認性向上のため蛍光オレンジのラインが入っている。また、F-15J/DJに似た制空迷彩を施した機体もある。過去にF-1を模した迷彩塗装を施した機体もあった。, 曲技飛行チーム「ブルーインパルス」(下記)の機体は白地に青のラインをあしらったもので、F-86F時代の塗装のイメージを引き継いでいる。, 芦屋基地第13飛行教育団の機体は上空での視認性向上を目的としてT-7と同じく『白地に赤のライン』の塗装であるため「レッドドルフィン」という通称がある[14]。2007年度より飛行教育カリキュラムの改正により、第13飛行教育団のT-4の定数が削減され、一部の機体は浜松基地第1航空団へ移動したが塗装はそのままであり、第1航空団では通常塗装とレッドドルフィンが混在した状態で配備されている。川崎重工の紹介ページでは一時期レッドドルフィンの画像が使われていた。, 翼下と胴体下には計3ヶ所のハードポイントが設定されている。上記の増槽のほか、胴体下のポイントにはトラベルポッド、標的曳航装置、集塵ポッドなどを搭載することができる[1]。, なおXT-4では、戦技訓練用として、胴体下に7.62mm口径のミニガンのポッドを搭載できるとされており[3]、1987年には試作2号機を用いて、三沢基地で発射試験が行われた[15]。ただし量産機ではプロビジョンに留まっており[3]、武装せずに運用されている[1]。, 1988年7月28日に部隊使用承認が下り、同年9月より量産機の納入が開始[19]。以後、各飛行隊のT-33A、後にはT-1A/Bも置き換えながら全国へ配備された。15年にわたって量産体制が敷かれ、2003年(平成15年)3月6日の最終号機(36-5812)引渡しまでに、量産機は208機、試作XT-4の4機も含めて212機が生産された[1][11]。, 量産機は、まず浜松基地の第1航空団に10機、また整備実習用として第一術科学校に2機が配備された。既にT-33はその前年の1987年より用途廃止機が出はじめていたことから、まずT-4はT-33の代替機として配備されていった。1990年10月には最後のT-33部隊であった第33飛行隊が廃止となり、以後は各航空団で多用途補助機として使われていたT-33を代替していった[2]。またT-2にかわる3代目「ブルーインパルス」としても採用され、1994年8月11日より専用仕様機(戦技研究仕様機)の納入が開始されて、1995年(平成7年)度から運用を開始した。, そして1996年(平成8年)度からはT-1A/Bの後継機としての配備も開始され、2001年3月までにT-1の更新を完了した。これにより、従来は基本操縦課程で行われていたT-1からT-4への機種転換教育が不要になったことから、115時間だった課程が80時間に短縮されている。平成17年度以降、T-7の初級操縦課程を経て、T-4の基本操縦課程を終了すると、すぐにF-15やF-2といった戦闘機での訓練に移行する課程となった[2]。また2007年8月からは、戦闘機との橋渡しとして、第1航空団でT-4による戦闘機操縦基礎過程(FTB)教育が開始された[20]。, 操縦訓練以外の用途としては、ブルーインパルスの曲技機、連絡機の他、2006年10月の北朝鮮による核実験の際に大気中の浮遊塵を採取するため集塵ポッドを搭載、2015年11月11日に行われたMRJ(現:Mitsubishi SpaceJet)の初飛行時にチェイス機として随伴するなど様々な用途に使われている。なお射撃訓練ではF-4やF-15に標的曳航装置を搭載しており標的曳航機としての運用は行われていない。浜松基地には第1術科学校が整備教材として使う機体が存在する。, 2000年(平成12年)7月4日、第11飛行隊(ブルーインパルス)所属の2機が松島基地から25kmの牡鹿半島上空でレーダーから消失、金華山に墜落し、乗員3名が死亡した[21]。この年の3月22日には同基地所属のT-2も同空域で墜落しており、至近の女川原発へ衝突する可能性を合わせ、地元自治体や日本共産党などに非難された[22][23]。再発防止策が自治体に受け入れられるまで1年あまり曲技飛行の訓練が凍結された[24]。, 2019年4月2日、三沢基地所属機が、離陸後、右エンジンからの異音と振動を確認し、右エンジンを停止した状態で着陸した。着陸後の検査により、右エンジンは振動によりタービンブレードが折損、これによりエンジン内部が損傷したことが判明した。その後のIHIによる調査により、振動を抑える部品(内部の羽根状の金属部品)の機能の不足が判明、T-4は全機飛行停止とし、エンジン部品の交換等の対策を講じた上で、安全が確認された機体から順次飛行を再開すると発表された。なおこのトラブルによる部品の交換作業の長期化により、一時的に配備するT-4が少ない状態となり、ブルーインパルス所属機が2020年6月から通常6機編成のところ、当面4機編成になるなどの影響が発生した[25][26][27]。, 機内燃料搭載量は、ホークでは450ガロン、アルファジェットでは502ガロンであった, 平成十二年十月十九日提出 松島基地所属の自衛隊機墜落事故等に関する質問主意書 松本善明, 平成十二年十一月十日 衆議院議員松本善明君提出松島基地所属の自衛隊機墜落事故等に関する質問に対する答弁書, Jane's All the World's Aircraft 2004-2005, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=T-4_(練習機)&oldid=80254906. また同年8月25日に開催された松島基地航空祭においては午前中に1番機・5番機・6番機の3機で飛行し、午後には1番機・2番機・3番機の3機で飛行した。, その後、ブルーインパルス所属機の部品交換が進み、9月5日には6機での飛行訓練を再開した。その直後に行われた三沢基地航空祭では訓練の進捗状況により、1番機・4番機・5番機・6番機の4機で展示飛行を行ったが、9月16日の小松基地航空祭から6機での展示飛行が再開されている。, 2019年(令和元年)8月29日には、使用を禁止していたカラースモークの実機試験を実施した。これは2020年(令和2年)の東京五輪関連行事での展示飛行に向けたものであり、まず8月29~31日に地上試験を行い、9月3、4日には空中での試験を実施した。この試験では、スモークの視認性や、空中で拡散するよう改良した染料の地上への影響を確認した。, 2020年3月20日、松島基地で「聖火到着式」が開催された際、ブルーインパルスが「五輪」を描き、改良型のカラースモークが初使用された。, 2020年3月20日、松島基地での東京オリンピック・パラリンピック聖火到着式典においてブルーインパルス史上初となる2チーム・12機体制の飛行[注釈 3]が行われた。A(アルファ)編隊が「五輪」を描き、B(ブラボー)編隊がリーダーズ・ベネフィットを披露した。, 2020年に入って新型コロナウイルスのパンデミックが発生したことで、患者が爆発的に増え、医療従事者に過大な負担が生じるようになった。世界各地で医療従事者に向けた展示飛行が行われたことから、ブルーインパルスは医療従事者への敬意と感謝を示すため、2020年5月29日の12時40分から13時に掛けて東京都心の病院の上空を巡回する展示飛行を実施した[164]。人の集合を避けるため、飛行ルートは飛行開始の3時間前に公表された。, 前述の通り、ブルーインパルスは当初「飛行隊の中で曲技飛行(アクロバット飛行)を担当する1セクション」という扱いで発足している。このことを踏まえ、本節では第11飛行隊として設立された1995年(平成7年)12月以降の体制について記述する。, 第11飛行隊の内部組織は、飛行隊長を頂点とし、その下に飛行班・整備小隊・総括班という3つの部署が設置されている[165]が、これは他の航空自衛隊の飛行隊と同様である[165]。, 第11飛行隊特有の特徴として、パイロットと整備員については任期が3年と定められている[166]ことが挙げられる。これは、実戦部隊を離れたがらないパイロットが多い事に配慮し[133]、3年間という条件をつけることによって第11飛行隊への選出を行ないやすくするためである[133]。また、飛行班・整備小隊においては階級が「空士」の隊員は存在しない[7][注釈 4]。これは、空士は2等空士・1等空士・空士長とも任用期間が3年(2任期目以降は2年)に限られており[167]、第11飛行隊の3年という限られた任期の中では、他の部隊で行われているような新人養成や空曹への昇進試験などに時間を割く余裕がないための配慮[7]である。, 通常の制服のほかに『展示服』と呼ばれる、展示飛行の際に着用するための専用の制服や飛行服が用意されている[注釈 5]ことや、整備員とパイロットの連帯感が強い[168]ことも特徴である。相互の理解を深めるため、訓練時にパイロットが他のポジションの後席に同乗する機会を設けている[169]。, 飛行班長以下、1機あたり1〜3人のパイロットが在籍する[165]。パイロットは「ドルフィン・ライダー」と呼ばれており[170]、パイロットスーツの左腕に装着するパッチにも "DOLPHIN RIDER" と記されている[171]。1番機については飛行隊長と飛行班長の両方が担当する期間もある[133]が、2番機から6番機までは交代要員としてのパイロットは存在しない[133]。第11飛行隊は展示飛行の任務しか行なわない[8]ため、日常のミッションはアクロバット飛行やウォークダウン・ウォークバックの訓練となる[8]。, 限られた期間内で訓練と展示飛行をこなす必要があるため、途中での担当ポジションの変更は一切なく[133]、また第11飛行隊に選出されたパイロット自身が担当ポジションを希望することもできない[133]。左胸のネームタグもポジションナンバー入りとなっている[171]。, パイロットの選出にあたっては、操縦技量が優れていること[173]のほか、高度なチームワークが要求されるために協調性があることが求められている[173]。また、広報活動が主な任務であり、航空自衛隊の代表として多くの観衆と接するため、社交性も要求される[173]。なお、手当ては普通のパイロットと同様である[133]。ブルーインパルスへの異動は「本人の希望による異動」と「命令による異動」があり、2003年(平成15年)時点ではどちらかといえば後者の方が多かった[133]が、2010年(平成22年)時点では本人が希望することが多くなっている[174]。, それまでのTAC部隊では全くやったことのない操縦技術を習得せねばならず[133]、最初はどのパイロットも戸惑いがあるという[133]。また、TAC部隊で戦闘機を自在に操っていたパイロットにとっても、訓練内容は高度で厳しい内容であるといわれる[175]。一方、訓練の中で編隊飛行の操縦技量等が著しく向上し、3年の任期を終了してTAC部隊に戻ると、空中集合の早さに同僚のパイロットから驚かれたり[176]、「どうしてこんなに編隊が上手いの?」と質問されたりするという[177]。これについて第11飛行隊の初代飛行隊長は「高度な操縦技術を3年間みっちり行なえば、一般の部隊に戻った後にフィードバックできることも多いはず」と述べている[176]。, なお、展示飛行は日中にしか行われないが、技量維持のため1ヶ月に数回ほど夜間飛行訓練を行なっている[104]。, 基本的に過去の在籍者の再在籍は行われないが、事故による要員不足時に教官要員としての再在籍があったほか、それ以外でも、要員の都合上異動から数年後に担当ポジションを変えて再在籍した例がわずかながらある。また、2020年3月20日に行われた東京オリンピック・パラリンピック聖火到着式典において、史上初の2チーム・12機2チーム体制とする為に、OBがTAC部隊から一時的に異動していた。, ※T-4ブルーインパルスの歴代隊長は部隊を去る際に、飛行隊に込めた思いの言葉を残していく。, 地上クルーのうち整備を担当するのが整備小隊で、整備小隊長以下20人前後が在籍[178]。整備員は「ドルフィンキーパー」と呼ばれ[179]、整備服の左腕に装着するパッチにも "DOLPHIN KEEPER" と記される[171]。1機につき3名の機付整備員が配置され[180]、そのうち1名が機付長として受け持つ機体についての作業を任されている[180]。他の部隊と異なり、機体を磨く作業が重要視されている[181]のが業務内容の特徴である。航空祭などではエンジンスタートや地上誘導などを担当する[178]だけではなく、展示飛行の際にはウォークダウン・ウオークバックを披露する[181]。観客に背中を見せる機会が多いため、展示服の背中にはブルーインパルスのロゴも入っている[171]。, パイロットと同様、任期は3年間を原則としており[178]、通常は1月に着任して実務訓練を受ける[181]。また所属隊員の個人名が紹介されている[179]。, 総括班長は2006年(平成18年)4月までは5番機のパイロットが兼務していた[182]が、2006年4月以降は展示飛行を行なわないパイロットが選任されている[178]。パイロットであるため、ネームタグは飛行班と同じデザインで、7番機のポジションナンバーが入っている[183]。, 総括班は、飛行スーツやヘルメット、酸素マスクなどの維持管理を行う「救命装備員」(LIFE SP)[178][注釈 6]、飛行計画(フライトプラン)を管理する「飛行管理員」(DISP)[178][注釈 7]、物品調達を行う「補給員」(SUPPLY)[178]、その他の庶務を行う「総務員」(ADMIST)[178][注釈 8]という業務内容で、航空祭の時にもパイロットや整備員と同行して展示飛行の準備を行う[178]ため、展示服が用意されている[184]。, 格納庫(ハンガー)は1998年(平成10年)7月に建設された[185]。緩やかなアーチ形状の屋根で[186]、正面には "Home of The Blue Impulse" という文字が入れられており[186]、ハンガー内部の床面中央には直径10mほどの大きさで[187]ブルーインパルスのエンブレムが描かれている[186]。, 飛行隊舎は格納庫に隣接しており[188]、1階には資料展示室がある[189]ほか、屋上には訓練を見学するための観客席が設けられている[189]。, なお、同隊舎と格納庫は2011年(平成23年)3月の東日本大震災による津波で水没し、損傷したが、駐機場と格納庫を約3,6メートルかさ上げし、格納庫には防水扉を設置。滑走路との間に長さ約200メートル、幅約23メートルの誘導路も新設した。, 業務用車両として、現地クルーの移動支援用にトヨタ・ランドクルーザーとホンダ・アクティを導入していた[190]が、2010年(平成22年)に日産・エクストレイルを導入した[191]後、ランドクルーザーは使用されていない[192]。いずれもブルーインパルスの機体と同じイメージの塗装が施されている[192]。この他、ブルーインパルス専用のトーイングカーと電源車を保有する[192]。なお、給油車については飛行群ではなく整備補給群の所属である[192]が、そのうち1台は「スモークオイル専用の給油車」で、松島基地にしか存在しない[193]。, 初代機体F-86Fは、航空自衛隊創設に当たり、アメリカから供与された当時の主力戦闘機である[22]。使用機体は全機改修にて取得されており、ブルーインパルス向けとして新造された機体は存在しない。原則として浜松基地に配備されていた機体の中から以下の条件がそろった機体を選び出し改修していた。, 主な改修点は、後部胴体にある燃料タンクのスモークオイル(発煙油)タンクへの転用[198]、スモーク発生装置のエンジンノズル後方への設置で、一部の計器の配置変更や置き換えも行われている[注釈 10]。スモークオイルのタンク容量は105ガロンで、約50分の連続発煙が可能であった[198]。, しかし、この改造に伴い、本来は飛行に使用する燃料の搭載量が少なくなった。ドロップタンク(増槽)を装備しない場合のF-86F許容G(重力加速度)は7.0Gであるのに対し[197]、ドロップタンクを装備した場合はドロップタンク内の燃料が空でも許容Gは5.5G[197]、燃料満載時には許容Gは5.0Gで[197]、演目によっては許容Gに余裕がなくなる。このため、当初はドロップタンクを外した「クリーン形態」で展示飛行や訓練を行なっていた[29]。しかし、展示飛行の課目の増加に伴って燃料タンクの容量不足が問題化[185]、1966年(昭和41年)頃からは安全上の見地からドロップタンクを常時装着することとなった[197]。, 機体の塗装は、当初は通常塗装(無塗装)機が使用されていた[29]が、第1航空団の部内で募集されたデザイン案の中から、1961年(昭和36年)に金属の地肌に青とピンクとライトブルーの斜めストライプを配した専用デザインが施された[199][注釈 11]。なお、編隊長機のみ青の部分を金色としていた[199][注釈 11]。ピンクやライトブルーの部分は褪色が激しく、白色に近い状態となったため、後から追加改修された機体ではこの部分の色を濃くして対応した[200]。その後、1963年(昭和38年)頃にチーム内で塗装案を検討し[39]、東宝映画『今日もわれ大空にあり』への撮影協力をきっかけに、東宝デザイナーが協力することになった[37]。1963年10月には92-7872号機が試験塗装を施され[201]、これを手直しして1963年11月に正式に新塗装が決定した[39][注釈 1]。, 所属期間は機体によってまちまちで、1年程度しか使用されなかった機体もあれば、解散までのほぼ全期間を通じて使用された機体もある。使用された計34機の内、1981年(昭和56年)の最終飛行時まで在籍していたのは9機、ブルーインパルス所属のまま事故で失われたのは4機[202]。後者の内1機はブルーインパルスとは関係のない学生訓練中に発生した空中接触事故で失われている[202]。この34機の中には米軍からの供与機も含まれており、それらの機体は用途廃止後に米軍に返還されている[202]。一部は無人標的機QF-86Fに改造され、空中標的として使用された[203]。最後まで使用された機体の1機である02-7960号機は用途廃止後もしばらく動態保存状態に置かれ、1985年(昭和60年)11月16日の浜松基地航空祭にてタキシングを披露したが、半年後ブレーキ系統に不具合が生じたため地上展示専用となった[204]。, 2代目機体T-2は、国産初の超音速高等練習機である[205]。パイロットからはF-4EJをブルーインパルス用として推す意見もあった[69]が、大型過ぎることや燃料消費量が大きいことから実現に至っていない[69]。最終的には国産機であることや、練習機であるため操縦性や安定性に優れているという理由でT-2導入が決定した[69]。, しかし、T-2は翼面荷重が大きい超音速機であり、旋回半径も大きかった[69]。エンジン推力が比較的小さいこともあり[73]、高機動を行うと速度低下が著しかった[73]。このため、課目間のつなぎのための旋回(プロシージャーターン)がF-86F時代に比べて大きくなり、演技に間延びした感が出てしまうことは避けられなかった[73]。この間延び対策のために、F-86F時代の標準だった5機編隊にソロを一機加えた6機編隊に変更された[73]。, ブルーインパルスで運用された機体は、後期型6機がブルーインパルス用として新造された[69]ほか、前期型から2機がブルーインパルス仕様に改修されている[69]。1983年(昭和58年)と1986年(昭和61年)に補充のために後期型から1機ずつがブルーインパルス仕様に改修された[206]。, ブルーインパルス仕様の改修点は、アクロバット飛行用に胴体内の第7燃料タンクをスモークオイル用に転用したスモーク発生装置[207]が主なものである[注釈 12]。離陸時にスモークオイルを噴出しないでアフターバーナーを使用するとスモーク発生装置のノズルが溶解してしまう[208]ため、離陸推力とアフターバーナーの併用時にはスモークオイルを流すようにしていた[208][注釈 13]。これによってスモークオイルが高温の排気によって燃焼し、長い炎を曳くことになった[208]が、偶然の産物であった[88]ものの観客には強い印象を与えることになった[73]。これは「トーチング」と呼ばれ、世界のどのアクロバット飛行チームにもないT-2ブルーインパルスだけの特徴となった[88]。, 機体の塗装は、T-2では一般公募が行われた結果、2,055点の応募の中から、女子高生4人のグループによるデザインが最優秀賞となり[29]、このデザインに機首部分と主翼下面を中心とした大幅な修正が行われた上で実機に塗装された[29]。 (正確だ!)と驚嘆したという[124]。この時に披露された課目のうち、ブルーインパルスのオリジナル課目である「スター&クロス」については、最初のうちは5機がバラバラの方向にスモークを引いているようにしか見えず、ほとんどの観客は意図が分からなかったという[109]。しかし、スモークが伸びるにつれ、会場にいた子供の「スター!」という声があちこちから聞こえだした[109]。アメリカ空軍のみならず、アメリカ合衆国そのものの象徴でもある星[105]が空中に描かれると、観客からは絶賛されたという[120]。この「スター・クロス」は、アメリカ人の観客からはアメリカ空軍50周年を記念したスペシャル課目と思われていたと推測されている[116]。, 会期終了後、同1997年4月28日にネリス空軍基地からノースアイランド海軍航空基地へ移動し[125][注釈 2]、そこで再度船積みを行なって同年5月6日に出港[125]、松島基地には5月28日に帰還した[125]。, このアメリカへの展開は3ヶ月に及んだため、この1997年の展示飛行回数は15回にとどまった[126]。なお、この年には松島基地に新しい隊舎が完成した[111]。, 1998年(平成10年)には長野オリンピック(長野五輪)の開会式上空における航過飛行(フライバイ)の要請を受けた[105]。東京五輪とは異なり「五輪を描く」ことはなかったものの、開会式の会場が冬期の山岳地域であり[105]、会場が冬期迷彩のように視認性に劣るため[127]、会場の脇には移動式TACANが設置された[105]。また、開会式当日は第11飛行隊の飛行隊長が会場から無線で編隊に直接指示を送る体制をとった[105]。開会式当日、ベートーヴェンの交響曲第9番第4楽章の演奏・合唱が終了すると同時に[105]、会場上空で5色のスモークを引きながらレベルオープナーを披露した[127]。, 同年7月には松島基地にブルーインパルス専用の格納庫と「ブルーインパルス・ミュージアム」が完成[105]。同年7月27日の松島基地航空祭において「お披露目式典」が行なわれた[105]。, 1999年(平成11年)からはカラースモークは使用されなくなった[128]。一方、1982年( 昭和57年)の事故以来、水平系の課目しか行われていなかった[127]浜松基地の航空祭では、この年の11月14日に浜松基地で行われた「エアフェスタ浜松」にて、17年ぶりに垂直系の課目を含めた展示飛行が行われた[127]。, 飛行隊として独立してから、部隊運用や管理はスムーズに行なわれており[129]、全国の航空自衛隊隊員にとって、ブルーインパルスは魅力的な部隊となった[9]。, ブルーインパルスが40周年、第11飛行隊も5周年となる2000年(平成12年)は、岩国基地で行われたフレンドシップデーなどで、「2000」という文字を描くなど、ブルーインパルスが得意とする「描きもの」が展示飛行に採りいれられた[130]。, ところが、同年7月4日、金華山沖での訓練を終えて帰投する途中、5番機と6番機が宮城県牡鹿郡牡鹿町(当時・2005年以降は石巻市)の光山山頂付近に墜落[1]、3名が殉職するという事故が発生した[1]。この事故直後からブルーインパルスは活動を停止[1]、同年7月末に予定されていた松島基地航空祭も中止となった[127]。, 事故原因は海霧の中で高度を下げすぎたのが原因とされた[127]。1991年(平成3年)の同じ7月4日にも墜落事故が発生しており[1]、その日がどんな日であるかはブルーインパルスのメンバー全員が分かっていたにもかかわらず発生してしまった事故だった[110]。しかも、この事故では墜落地点が女川原子力発電所に近い地域で[127]、女川原子力発電所の半径3.6kmに設定されていた飛行禁止区域をかすめて飛んでいたことが問題視され[129]、周辺自治体の一斉反発を招いてしまった[129]。, このため、航空自衛隊では、訓練空域や松島基地への進入経路を一部見直した上で飛行最低高度を設定するなどの安全対策を実施し[1]、自治体との話し合いを続けた結果[129]、2001年(平成13年)2月9日から訓練飛行を再開した[129]。単独機である5番機と6番機の要員を失ったブルーインパルスの建て直しのため[1]、第11飛行隊発足当時のメンバーだったパイロットが一時的にブルーインパルスに教官として復帰し[131]、パイロット育成を実施した[132]。また、機体も2機が失われ、通常2機が川崎重工でIRAN(定期検査)に入っているため[129]、6機での展示飛行は出来なくなった[129]。, それでも、同年8月26日の松島基地航空祭から展示飛行が再開された[132]。同年9月9日の三沢基地航空祭ではアクロバット飛行を含む展示飛行も行われた[129]が、同年9月11日に発生したアメリカ同時多発テロ事件の発生により、その後の展示飛行はすべて中止となった[127]。, 2002年(平成14年)4月5日に行われた防衛大学校入校式から活動を再開した[110]。これがT-4ブルーインパルスとしては通算100回目の展示飛行となった[110]。また、6月4日に行なわれたFIFAワールドカップ会場の埼玉スタジアム2002上空でも航過飛行(フライバイ)を行なった[127]。同年中には2001年度予算案で2機の調達が認められた[132]ことから、9月までに2機のT-4が引き渡され[132]、再び6機での展示飛行が可能となったのは同年12月1日の岐阜基地航空祭からである[129]。, この期間はパイロットのローテーションが変則的となり、3年という本来の任期を越えて在籍したパイロットもいた[132]が、2003年にはほぼ以前と同様の状態に戻すことができた[133]。, その後は新しい課目の研究や開発を行う余裕も生まれ[132]、2004年(平成16年)には航空自衛隊発足50周年を記念した「サクラ」などの新課目も加わった[132]。, 2006年(平成18年)には第11飛行隊が創設されて10周年になることを記念し、同年2月17日・18日に記念行事も行われた[132]。この記念行事では、第11飛行隊で天候偵察用に使用されている通常仕様のT-4に対して特別塗装が施された[134]ほか、2000年(平成12年)の事故で殉職したパイロットの慰霊行事も行なわれた[135]。翌2007年(平成19年)5月27日の美保基地航空祭で、T-4によるブルーインパルスとしては通算200回目となる展示飛行を達成した[132]。2009年(平成21年)10月18日には三沢基地航空祭においてサンダーバーズとの競演が実現した[110]。, 2010年(平成22年)はF-86Fでブルーインパルスが活動を開始してから50周年を迎え[132]、パッチや帽子のデザインが変更された[110]ほか、同年8月21日には松島基地で50周年記念式典が行われ[136]、1982年(昭和57年)以降に事故で殉職したパイロットの慰霊祭が行なわれた[137]。また、2011年(平成23年)1月23日に那覇基地で行なわれた「エアーフェスタ2010」では、F-86F・T-2時代を通算して1,000回目となる展示飛行が行われた[138]。, 2011年(平成23年)3月、ブルーインパルスは同年3月12日の九州新幹線全線開通を記念した展示飛行のため、3月10日芦屋基地への展開を行なった[139]。ところが、同年3月11日に九州新幹線全線開通記念の展示飛行予行を行なった直後に東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)が発生し[139]、3月12日の九州新幹線全線開通記念の行事全てとともに展示飛行は中止され[140]、ブルーインパルスのベースである松島基地が津波の被害を受けたため[139]、帰還することも出来なくなってしまった[140]。松島基地に配備される航空機で無事であったのは、展開中であったブルーインパルスの機体のみであった[141]。松島基地ではブルーインパルス専用機の予備機1機が水没した[142]。基地機能復旧に時間がかるため、ブルーインパルスの機体は九州に残したまま、隊員だけが同年3月14日に松島基地および周辺地域の復旧作業のために帰還した[139]。, 基地の機能復旧や津波対策を行う関係から松島基地での受け入れ態勢が整わず[143]、その都度松島からクルーが芦屋基地へ出向く「移動訓練」という形態を余儀なくされた[139]ものの、同年5月23日から訓練飛行が再開され[140]、同年8月7日に千歳基地で行なわれた航空祭から展示飛行を再開した[144]。仮のベースとなる芦屋基地では第13飛行教育団の隊舎内にある会議室に間借りすることになった[145]。芦屋基地では環境問題の関係からアクロバット飛行の訓練を行うことはできなかった[146]ため、地元との調整の結果、同年8月26日からは築城基地上空においてアクロバット飛行の訓練が再開された[146]。離陸課目の訓練で築城基地に離着陸することもあった[147]。整備員が移動しなくて済むように、芦屋基地から築城基地上空まで飛来して訓練を行う「リモート訓練」形式となり[148]、地上統制要員は築城基地まで陸路を移動していた[147]。この他、日本海側にある見島分屯基地でも洋上訓練を行なっていた[149]。, なお、松島基地が所在する東松島市では同年8月に避難者の応急仮設住宅入居が完了し、全避難所が8月31日に閉鎖された[150]。ちょうどこの時期(8月20日)に東松島市で行なわれた「ありがとう!東松島元気フェスタ」で展示飛行が行なわれた[143]。この時は三沢基地からのリモートショー形式だった[143]。, 震災による訓練中断と、その後の不安定な天候により、この時期のブルーインパルスでは要員練成にも遅れが生じ[151]、半年ほど第11飛行隊からの転出が遅れる事態になった[151]。このような事情から、要員練成をメインとして[151]、2012年の展示飛行は通常の年の半分以下である12回に減らされた[147]。, その後、松島基地の復旧と津波対策が進んだことにより[139]、ブルーインパルスは2012年度(平成24年度)内に松島基地へ帰還することになった[139]。2013年(平成25年)3月15日には、移動訓練の記念として、築城基地に配置される第6飛行隊のF-2・第304飛行隊のF-15との編隊飛行訓練が行なわれた[149]が、ブルーインパルスがTAC部隊の戦闘機と編隊飛行を行なった事例はほとんど前例がないといわれている[149]。同年3月25日には芦屋基地において移動訓練終了を記念して「ブルーインパルスお別れフライト」と称した展示飛行と帰還記念式典が行なわれた[152]が、展示飛行は平日の午前中であるにもかかわらず3,500人の観客が訪れたという[153]。この時の課目には、本来なら2011年(平成23年)3月12日に披露するはずであった「サクラ」も含まれていた[154]。, ブルーインパルスは同2013年3月28日に芦屋基地を出発[155]、百里基地を経由しながら3月30日に松島基地に帰還し[156]、3月31日には小野寺防衛大臣[157]や地元の自治体関係者も集まって[158]帰還行事が行なわれた[157]。また、同年4月6日には東松島市商工会によって帰還イベントが開催され、悪天候のため訓練飛行は行なわれなかったものの、タキシングやブルーインパルスジュニアの展示が行なわれた[159]。, 帰還時点では、ブルーインパルスの格納庫はかさ上げ工事中のため、津波対策として新たに整備された退避用の格納庫とエプロンを使用する状態である[160]が、同年4月4日からは再び金華山沖でアクロバット飛行の訓練が再開された[161]。, 同2013年6月1日、東日本大震災からの復興を後押しするために福島県福島市で開催された「東北六魂祭」で、パレード会場の国道4号線上をショーセンターとして、ブルーインパルスの編隊連携機動12課目が行われた[162][163]。, 2019年(平成31年)4月2日に三沢基地所属の通常仕様のT-4が訓練中のエンジンの不具合で緊急着陸した。, その後の原因調査の結果、エンジン内の振動でタービンブレードが破損していたことが判明し、エンジンの振動を抑える部品を改良したものに交換する必要が出てきたことから、部品交換のされていないT-4はそのまま飛行停止となった。同型機を使用するブルーインパルスも部品交換まで訓練ができず、4~6月に予定されていた鹿児島、山口、静岡、鳥取の各県での展示飛行を中止した。, その後、5月下旬に訓練を再開し、2019年(令和元年)7月21日に宮城県松島町で行われたイベントで飛行を再開したが、部品交換の進度の関係上2機での再開となった。 年間40-50公演 色んなパフォーマンスを観にいきます。 動体撮影を行うのなら憧れの被写体の一つ、航空機の「ブルーインパルス」。平成29年度(2017年度)も埼玉県入間基地で行われる「入間航空祭」の時期が迫ってまいりました。 今回は昨年度の私の初挑戦の経験をもとに、機材や実際の撮影についてご紹介してみようとと思います。 究極のブルーインパルス写真。デジタルのようにiso感度上げてシャッター速度を上げたり、手ぶれ補正レンズに頼ったり、後処理のレタッチソフトでシャープネス掛けたり、そんなごまかしのまったくない究極の写真。見れば見るほど、考えれば考えるほど、寝込みたくなる一枚です! ブルーインパルスのパイロット同士の交信を聞く gtag('js', new Date());

ブルーインパルス(英: Blue Impulse [2])とは、航空自衛隊に所属する曲技飛行隊(アクロバット飛行チーム)[3][4][5][6]であり、その愛称[3]。, 当初は部隊の中の一チームという位置づけで、1995年(平成7年)に正式に一部隊として独立した。正式部隊名は第4航空団飛行群第11飛行隊で、広報活動を主な任務とし[7]、展示飛行を専門に行う部隊である[8]。世界の曲技飛行隊の中でも、スモークを使って空中に描画する、いわゆる「描きもの」を得意とするチームとして知られる[9]。少数機による密接した編隊での精密な演技を得意としている[6]。現在の本拠地は宮城県の松島基地である。, 本項では、旧日本陸海軍が行なっていた曲技飛行(アクロバット飛行)の歴史を踏まえたうえで第11飛行隊の体制についても解説する。また、第11飛行隊では、ブルーインパルスがイベント等で行う飛行のことを「展示飛行」[10]、展示飛行の開催地に向かうことを「展開」と呼んでいる[10]ため、本項も記述もこれに準ずる。, なお、航空交通管制における編隊のコールサインは、愛称がそのまま用いられている[3]。, 本項では、自衛隊以前での階級については当時の階級で記述する。使用機材の変遷については歴代運用機節を参照。, 1916年(大正5年)に開隊された旧海軍の横須賀海軍航空隊は、当初の任務は教育や飛行練成が主だった[11]が、航空隊が各地に開隊される頃からは、戦技研究や航空機の実用試験を主な任務として行うようになっていた[11]。海軍では、一般からの献金によって製造された戦闘機や爆撃機を「報国号」と称しており[11]、1932年(昭和7年)ごろから献納式典の際に、民衆の前で曲技飛行を行うようになった[11]。これが日本におけるアクロバット飛行の始まりで[11]、当時は「編隊特殊飛行」と称していた[12]。この編隊特殊飛行を考えたのは、当時海軍の戦闘機分隊長だった小林淑人大尉で[11]、小林が率いる編隊特殊飛行チームは「三羽烏」「空中サーカス」と新聞で持てはやされた[13]。またこれに先駆ける1925年(大正14年)、旧陸軍の所沢陸軍飛行学校で行われた航空兵科独立記念祝典にて、数万の観衆のもと空中分列式と並んで各種飛行曲技の供覧が実施されている[14]。, 一方、1931年(昭和6年)に発生した柳条湖事件を機として満州(現在の中国東北部)を制圧した関東軍に当時の日本社会は高揚し、「報国号」の献納数も増えることになった[13]。ちょうど1933年(昭和8年)に源田實が戦闘機分隊に配属され、編隊特殊飛行チームを受け継いだ時期と重なったため、曲技飛行の機会も増加し、使用する戦闘機の数も9機にまで増加した[13]。これらの編隊特殊飛行は、専ら九〇式艦上戦闘機を使用して行なわれた[15]。課目には「3機編隊で急降下し、引き起こし中に1機だけ背面飛行となり、そのまま急上昇」というものもあり、列機はほとんど姿勢を崩さなかったという[16]。こうして、編隊特殊飛行チームは「源田サーカス」という通称が定着していった[17]。しかし、戦争の激化と共に編隊特殊飛行は行なわれなくなった。, 第二次世界大戦が終結した後しばらくは、連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) の「301号訓令」によって、日本では航空機の製造や研究などが許されない時期が続いた[18]。これが解除されたのはサンフランシスコ講和条約によって日本の主権が回復した1952年(昭和27年)で[18]、同年10月には保安隊が発足し、翌1953年(昭和28年)1月からは保安隊航空学校において操縦教育が開始された[19]。さらに、1954年には自衛隊法が成立し[20]、保安隊は自衛隊に改組されることになり、同年7月には航空自衛隊が発足した[21]。, 1955年(昭和30年)にはMSA協定によって、航空自衛隊はアメリカからジェット戦闘機のF-86Fセイバーの供与を受けることになった[22]。これに対応し、パイロットの一部は教官課程に進むためにアメリカに留学することになった[23]。この時に日本のパイロットが留学していたのがアメリカ空軍のネリス空軍基地で、留学生のうちの1人のパイロットは、基地で見たサンダーバーズのアクロバット飛行演技に深く感銘を受けた[23]。また、アクロバット飛行チームのメンバーになることが、戦闘機パイロットにとっては大変な栄誉であることも目の当たりにした[24]。, このパイロットは帰国後に浜松基地の第1航空団第1飛行隊の教官として着任し[23]、当時浜松基地に主任教官として在日アメリカ軍事援助顧問団 (MAAGJ) から赴任していた[24]ジョー・ライリー大尉の助言を受け[25]、同僚を誘い、1958年(昭和33年)ごろから飛行訓練の合間にアクロバット飛行の訓練を行うようになった[26]。, これは極秘裏に行なった訓練で、やがて飛行隊長の知るところとなった[27]。この飛行隊長は叱責するどころか訓練の趣旨に共感し、すぐに航空団の上層部にかけあって、正式に訓練できる環境を整えた[27]。そのうえ、1958年秋に行われる浜松基地開庁記念式典のアトラクションとして、アクロバット飛行の公開を行うことが認められた[26]。まもなく3番機が訓練に加わり[27]、3機編隊での本格的な訓練が開始された[26]。3人は教官として学生訓練を終えた後、午後4時ごろからアクロバット飛行の訓練を行なっており、1ヶ月で60時間ものフライトを行っていたという[26]。この時期の第1飛行隊のコールサインは「チェッカー」で[28]、編隊飛行の際にはこれに編隊名として色名をつけており[28]、アクロバット飛行チームでは「チェッカー・ブルー」というコールサインを使用していた[27]。, 同1958年10月19日には、この3名によるチームにより、航空自衛隊によるアクロバット飛行が初めて一般に公開された[26]。使用機材は通常装備のF-86Fであり、スモークも特別塗装もなかった[26]ものの、ジェット機のアクロバット飛行は映画の中でさえ珍しかった時代に、航空自衛隊関係者と観客に与えた衝撃はかなりのものだったといわれている[28]。この後に4番機が加わり[28]、翌1959年(昭和34年)3月15日には愛知県犬山市で行なわれた日本平和防衛博覧会の開会式[27]、同年3月20日の防衛大学校卒業式[26]、同年4月26日の名古屋空港祭において展示飛行が行われた[28]。, ここでチームはいったん解散という形態をとることになる[27]ものの、アクロバット飛行の訓練は継続された[28]。その後、同年8月にアクロバット飛行チームのリーダーは交代することになり[28]、リーダーの所属する第2飛行隊のコールサインが「インパルス」だったため、アクロバット飛行チームは「インパルス・ブルー」というコールサインを使用することになった[29]。, 同年12月にアメリカ空軍のサンダーバーズが来日し[26]、同月12日には埼玉県のジョンソン基地(当時)において超音速ジェット戦闘機のF-100Dスーパーセイバーを使用したアクロバット飛行を披露した[26]。この時、航空自衛隊のアクロバット飛行チームもフライトを見学し、パイロットや地上要員のパフォーマンスを観察した[28]ほか、整備員はサンダーバーズのメンバーからスモーク発生方法に関する情報を得ることが出来た[29]。, この間にアクロバット飛行チームはいったん活動休止状態になったものの、水面下では航空自衛隊アクロバットチーム設立に向けた準備が進められていた[28]。とはいえ、自衛隊内部でも「基地上空での曲技飛行は規則違反」[30]「国家公務員が曲芸ショーなどやる必要はない」[31]という反対意見も根強かった。, しかし、1959年(昭和34年)7月に航空幕僚長が交代すると、航空幕僚長自身がアクロバットチーム設立に対して直接介入するようになった[31]。この時の航空幕僚長は、戦前に「源田サーカス」と称してアクロバット飛行を披露していた経験がある源田實である[32]。源田は過去の経験から、アクロバット飛行が一般人を引きつけることで、自衛隊が国民に親しまれる効果だけではなく、隊員の士気向上にも効果があることを知っていたと考えられている[28]。また、非公認のままでは、訓練中に事故死しても殉職扱いにならない可能性がある[33]ため、源田は「万一の事故でも名誉ある措置が取れるように」と考えた[33]。, こうして、アクロバット飛行チームの制式化は航空幕僚長である源田の内諾を得られ[28]、パイロットも7名に増員されて訓練が続けられた[29]。1960年(昭和35年)3月4日には、浜松北基地で第1航空団司令と空幕防衛部長がアクロバット飛行の仕上がり具合をチェックすることになり[28]、16課目のアクロバット飛行を披露した[29]。なお、当初は展示飛行のことを「公開飛行」と称していた[34]。まだアクロバット飛行チームは制式化されていなかったものの、これがブルーインパルスの第1回目の公式展示飛行とされている[29]。この検閲の結果、第1航空団司令と空幕防衛部長は「合格」という判断を下した[29]。この報告を受けた源田は、同年4月12日の公式展示飛行を視察した上[29]、同年4月16日にアクロバット飛行チームの編成を下命した[29]。, この下命を受けて、第2飛行隊内に「空中機動研究班」が制式発足した[28]。空中機動研究班の目的は「戦闘機パイロットには不可欠の要素である操縦技術・チームワーク・信頼心・責任感・克己心を研究訓練し、技術と精神力の限りない練磨と向上」[35]、展示飛行の目的も「チームの力を最大に発揮し、戦闘隊戦力の一端を多くの人に身近に観察する機会を与えるとともに、航空意欲の高揚を図る」と定められていた[34]。なお、空中機動研究班は1個の独立した部隊ではなく、第1航空団の教官から選抜されたパイロットによるチームであり[28]、教官としての職務の傍らでアクロバット飛行訓練と展示飛行を行っていた[28]。また、このときに考えられた課目は、ほぼすべてがサンダーバーズの課目構成に倣ったものだった[28]。, 同1960年(昭和35年)5月21日にはジョンソン基地において行われた「三軍統合記念日公開」において展示飛行が行われ[29]、このときに初めてスモークが使用された[26]。なお、機体にはまだ特別な塗装はされていなかった[29]。同年8月1日には部隊名が「空中機動研究班」から「特別飛行研究班」に変更された。また、これとは別に親しみやすい愛称を設定することになり、自衛隊の部内で公募を行なった結果、浜松基地の近くを流れる天竜川にちなんで[28]「天竜」という愛称が採用されることになった[29]。ところが、航空交通管制のコールサインとして使用すると、アメリカ軍の航空管制官にとっては発音が難しい上[28]、古臭いという意見もあった[26]。そこで、これまで使用していた「インパルス・ブルー」を逆にした「ブルーインパルス」(青い衝撃)としたところ[29]、語呂もよく一般にも分かりやすいという理由により、正式な愛称として決定した[28]。編隊長であった稲田淳美3佐が愛称の命名を担当しており、「インパルス・ブルー」とするか「ブルーインパルス」に変更するかで迷っていたという[36]。彼の妻が「衝撃という意味では、原爆の青い閃光ほど衝撃的なものはない」と言ったことから「ブルーインパルス」に決まったという[35]。, こうして、制式化された「ブルーインパルス」は、1960年には13回の公式展示飛行を行った[37]。ところが、公式展示飛行が20回を超えた後の1961年7月21日[29]、次期編隊長機として訓練を行なっていたF-86Fが伊良湖岬沖で墜落しパイロットは殉職[37]。ブルーインパルスでは初の犠牲者となってしまった[37]。このため、ブルーインパルスは約1ヶ月ほど飛行停止となり[26]、事故調査の結果を受けて安全対策が整えられた[29]。なお、この時期はブルーインパルスに限らず、各地の飛行隊で墜落事故が多発していた[38]。防空上からもパイロット育成が急がれたため、事故から飛行再開までは短期間であった[38]。, この事故を契機として、それまで第1飛行隊と第2飛行隊から選抜されていたパイロットの所属をすべて第2飛行隊とすることによって、パイロットのスケジュール調整を容易にした[37]。, この時期まで、ブルーインパルスに使用されている機体はスモーク発生装置を装備していること以外は通常の塗装デザインであった[37]。しかし、編隊飛行でのポジション取りのための目印が少ないうえ[37]、派手さにも欠けていた[38]。このため、隊員から塗装デザイン案を募集したうえで、初代となるブルーインパルス塗装が採用されることになった[37]。これと並行して、カラースモークを発生させる研究も進められ[37]、1961年(昭和36年)10月22日の展示飛行で初めて特別塗装機とカラースモークが披露された[38]。, 1963年(昭和38年)9月には、東宝の映画『今日もわれ大空にあり』の撮影に第1航空団とブルーインパルスのパイロットが協力することになった[37]。この撮影期間中に東宝からブルーインパルスの塗装デザイン案の提供の申し入れがあり[37]、プロのデザイナーが新塗装のアイデアを提供した[38][注釈 1]。これが正式に2代目となるブルーインパルス塗装として採用されることになった[38]。この新デザインを施した機体は、1963年10月5日に美保基地で行われた航空祭において披露された[40]。, これより少し遡る1963年(昭和38年)1月、東京オリンピック組織委員会 (OOC) よりブルーインパルスに対して、1964年(昭和39年)10月10日の東京オリンピック(東京五輪)開会式における祝賀飛行の要請があった[37]。, ただし、当時航空幕僚長だった源田は1961年(昭和36年)から1962年(昭和37年)にかけて、自民党議員団や財界人、さらにはアマチュアレスリング協会の会長も浜松基地に呼んで展示飛行を行わせていた[41]。また、東京五輪の準備に際しては防衛庁も「オリンピック準備委員会」を設けており、自衛隊も協力することになっていた[42]。陸上自衛隊は祝砲を放ち、海上自衛隊は五輪旗を掲げて行進を行うことになっていたが、航空自衛隊の協力できる部分がなかった[43]。源田は1962年の参議院選挙に出馬して政界入りしており[44]、その直前に「開会式の上空に五輪を描く」ことを発案し、航空幕僚長から退官する際に業務引継ぎ事項の中に加えた[42]。さらに、源田は政界入りした後も、オリンピック開催準備委員長でもあった参議院議員の津島壽一に対して、空に五輪を描くことを提案していた[45]。こうした事情から、このOOCからの要請は源田の根回しの結果であるといわれている[46]。, この結果、当初は単なる航過飛行(フライバイ)の要請であった[47]が、第1航空団の飛行群司令からブルーインパルスに対して「五輪を描け」というオーダーが入ることになった[48]。同年5月23日にはOOCの事務局から数名のスタッフが浜松基地を訪れ[49]、ブルーインパルスのアクロバット飛行を見学した後、スモークで五輪を描く任務が具体化することになった[49]。, この準備に際して、まずブルーインパルス側である程度の案を作成し[46]、これを叩き台にしてOOCが開会式典の構成を策定した[46]結果、OOCから航空自衛隊への要望は「五輪マークを15時10分20秒から描き始め、位置は昭和天皇が座るロイヤルボックスの正面で、全景が見えること」という細かいものとなった[40]。それに合わせて高度や円の大きさなどの方針を固めていった[46]。しかし、何度訓練してもなかなか上手く描くことはできなかったという[50]。また、カラースモークも、1番機が青、2番機が黄、3番機が黒、4番機が緑、5番機が赤の5色で五輪を描くように準備した[51]。しかし、黒の発色がうまくいかず、ようやく完成したのは開会式の10日前である[40]。, 開会式前日の東京は土砂降りの雨で、もし開会式当日の10月10日も雨の場合は開会式は中止されることになっていた[52]。このため、ブルーインパルスのパイロットらは「これは明日はない」と早合点し、深夜1時まで酒を多く飲んでそのまま新橋に宿泊してしまった[43][53]。しかし、翌朝パイロットらが目を覚ますと東京の空は快晴であり、泡を食ったブルーインパルスのパイロットらは二日酔いのまま入間基地に駆け付け、本番に臨むことになった[43][53][54]。, ブルーインパルスは出発に際し、入間基地の航空管制官から "Any altitude OK."、つまり「どの高度で飛んでもよろしい」という離陸許可を得た[43]。予定通り午後2時半に離陸したブルーインパルスは、神奈川県湘南海岸の上空で待機した[53]。入場行進の遅れから秒単位で指定されていた式の進行が乱れ、隊長の松下治英は機転を利かせて航空無線機器でNHKラジオを受信しながら開会式の状況を確認してタイミングを見計らった[53][55]。聖火ランナーが国立競技場に入場すると同時に、ブルーインパルスは江の島上空を通過し国立競技場へ向かった[43]。会場で鳩が放たれ君が代斉唱が終わった直後、赤坂見附の上空にたどり着いたブルーインパルスは松下の号令でスモークで五輪を描き始め、30秒後には東京の空に東西6キロメートル以上にわたる五輪が描かれた[53][51]。練習でも経験したことのない会心の出来栄えであり、「成功」の無線を受けたパイロットらはコクピット内で歓喜の声を上げたという[53]。展示飛行を終えたブルーインパルスは、銀座の上空を低空で通過したり[56]、上野・池袋・新宿・渋谷・品川の上空をスモークを引きながら「凱旋飛行」し、入間基地に帰投したとされている[43]。当時は都内での飛行は厳しく制限されていなかった[57]上、前述の通り航空管制官からは「どの高度で飛んでもよい」という許可を受けていた[43]。, これはオリンピック史上でも前例のないアトラクションであり[58][59]、開会式が全世界に衛星生中継されていたこともあって、ブルーインパルスは日本国民のみならず、世界的にも大々的に知られることになった[38]。ブルーインパルスの隊員らはこの展示飛行の功績で防衛功労賞とOOCからの感謝状とトロフィーを10月20日に授与されている。なお、OOCからは開会式後に閉会式での実施も打診されたが、松下は「もう成功できるかどうか分からない」と辞退している[53]。, 当初は訓練空域が今ほど飛行場から遠くはなく、錬度の維持が行いやすかった。そのため演技の精度は高く、さらに規制も緩やかだったために展示飛行での高度が低かった。その高度の低さは、課目「ハイスピード・ローパス」を例にすると高度35フィート(約11メートル)というもので[60]、「草をむしりとった」という逸話さえある[60]。なお、1965年(昭和40年)から単独機のパイロットを務めた経験のある村田博生は「舞い上がった草の切れ端が翼についていただけ」としている[60]。, 1965年1月に築城基地から第33飛行隊が浜松基地に移転の上第1航空団所属となり[57]、さらに同年11月20日には第2飛行隊が解隊となった[57]ため、ブルーインパルスのパイロットは全員が第1飛行隊所属となった[61]。また、チーム制式名も「特別飛行研究班」から「戦技研究班」に変更となった[61]。この年はパイロットのメンバー交代や補充もあり、各ポジションに2名ずつパイロットを配置することが可能となった[57]。なお、この時期に第1航空団戦技研究班のインシグニアが作成されているが、作成したのは当時ブルーインパルスのパイロットだった村田博生1尉である[62]。同年7月25日には松島基地の航空祭において、ブルーインパルスとしては通算100回目の展示飛行が行われた。しかし、同年11月24日にはアクロバット飛行訓練中に1機が失速して墜落、パイロットが殉職するという、ブルーインパルスでは2度目の事故が発生した[61]。, その後も活動は続けられ、1969年(昭和44年)9月7日の丘珠航空祭において、通算200回の展示飛行を達成した[57]。この頃になると航空自衛隊の航空祭以外にも、1966年(昭和41年)11月6日に入間基地で開催された「第1回航空宇宙ショー」において展示飛行を行う[63]など、イベントにおいて展示飛行を要請されることが増え[57]、自衛隊のイメージアップという当初の目的は実を結びつつあった[57]。その一方、1967年(昭和42年)頃からは浜松基地周辺における宅地化の進展に伴い、騒音問題が発生していたため、訓練空域を海上に移さざるをえなくなった[61]。, 1969年(昭和44年)12月、日本万国博覧会協会からブルーインパルスに対して、日本万国博覧会(大阪万博)の開会式上空における展示飛行の要請があった[61]。, 当初、展示飛行の内容についてはブルーインパルス側に任されていた[40]。この当時のブルーインパルスは飛行技術面や組織面でも安定した時期で[61]、実力のあるパイロットも揃っており[61]、自主的な研究によって "EXPO'70" という文字を描くことになった[40]。早速訓練を行ない、万博協会の関係者が浜松基地を訪れた際に訓練中の文字を見せた[64]結果、本格的にプロジェクトとして進められることになった[64]。これは五輪を描くよりも困難であった[65]が、1970年(昭和45年)1月12日には浜松基地上空で "EXPO'70" の文字を描くことに成功した[61]。, 一方、万博の会場からわずか8マイルの地点に大阪国際空港があるため、大阪航空局からは「飛行の承認はできない」と通告を受けた[64]。これに対し、万博協会からも陳情を行なった結果、1970年2月中旬には飛行許可を得ることができた[64]。, 開会式当日の1970年3月14日、浜松基地を出発したブルーインパルスは、万博の会場で4課目のアクロバット飛行を行なった後[64]、2分30秒かけて会場上空に "EXPO'70" の文字を描いた[40]。その後、同年6月29日にも同様に文字を描いている[65]。, 1971年(昭和46年)に入ってからも、ブルーインパルスは順調に展示飛行を重ねていた。しかし、同年7月30日に全日空機雫石衝突事故が発生したため、展示飛行を自粛する事態になった[61]。この事故の影響で、1973年までの展示飛行の回数が減少した。また、この事故を契機として航空路と訓練空域の見直しが行なわれ[65]、アクロバット飛行訓練にも大きな制約が加えられることとなった[65]ため、ブルーインパルスのメンバー養成に要する期間が2倍になってしまった[61]。展示飛行が再開されたのは、同年11月3日に名古屋空港(当時)で行なわれた「国際航空宇宙ショー」から[61]で、この国際航空宇宙ショーにはアメリカ海軍のアクロバット飛行チームであるブルーエンジェルスも参加していた[61]。, 1972年(昭和47年)11月4日には入間基地を離陸した直後に3番機がエンジンのフレームアウトにより墜落する事故が発生した[61]が、この事故による活動への大きな影響はなかった[61]。なお、3番機のパイロットはベイルアウトによって無事で、地上への被害もなかった[66]。
2020 ブルーインパルス 速度