米大統領の来日に伴う警備を直接担当した警視庁、京都、大阪、兵庫の各都府県警察及び皇宮警察においては、それぞれ「フォード米大統領訪日警備対策委員会」を設置して事前の警備諸対策、準備を進め、来日中は厳戒体制で臨み、事前警備を含め期間中(11月11~23日)、延べ約16万人の警察官を動員して、空港(東京、大阪)、迎賓館等の宿舎、各行先地及び沿道等における警備の万全を期した。 〔事例〕 「本山製作所事件」 ア 来日反対・阻止行動 c 事件の背景  フォード米大統領は、キッシンジャー国務長官ら随員一行とともに、昭和49年11月18日来日され、東京における天皇との御会見、日米首脳会談、宮中晩餐会等各種公式行事のほか京都旅行等4泊5日にわたる日程を無事終了して、11月22日、次の訪問先の韓国へ向け離日された。  近年、通信機器、マスコミ媒体等の急激な発達により、世界をかけめぐる情報は、質の向上とともに量的にも増大の一途をたどっているが、それにもかかわらずいわゆるスパイが目的とする「国家機密」、「軍事機密」等の重要性は依然として高く、それらをねらってスパイ活動が活発に行われている。  警察は、事件発生とともに、ICPO及び外交ルートを通じてフランス、オランダ両国警察から事案の詳細と捜査状況の入手に努めるとともに、国内における捜査を進めた結果、「古家優」は富山県出身の元会社員Dであることを突き止めるとともに、他人名義の旅券を不正に入手し、同旅券を使って「日本赤軍」の奥平純三を海外に送り出すなどしていた国内偽造旅券グループを割り出し、旅券法違反、有印私文書偽造・同行使等で4人を検挙(ほかに指名手配4人)した。また、「ハーグ事件」の犯人3人についても、オランダ警察の協力により「日本赤軍」の和光晴生、奥平純三、西川純の3人であることが明らかとなった。 羽田空港に着陸したフォード米大統領が乗った大統領専用機=東京都大田区の羽田空港(東京国際空港)で1974年(昭和49年)11月18日、米津孝撮影 毎日グラフ1974年12月8日号 16ページ掲載の別カット, 1974年(昭和49年)11月18日、フォード米大統領が米国大統領として初めて来日、キッシンジャー国務長官らと共に大統領専用機で厳戒の羽田空港に到着した。空港からヘリコプターで宿泊する迎賓館に入った。19日には迎賓館で歓迎行事が行われ、田中首相との第1回首脳会談に臨んだ。20日は2回目の首脳会談を行い、日米共同声明を発表した。21日に京都を訪れ、22日、大阪空港から韓国に向かった。 (イ) 捜査状況  1週間経過した2月6日午前11時43分ごろ、けん銃、手りゅう弾等で武装したパレスチナゲリラ5人が在クウェイト日本大使館を占拠して、大使以下館員ら16人を人質にとり、日本政府に対して“シンガポールのゲリラ4人をクウェイトへ飛行機で送るよう”要求するという新たな事案が発生した。  なお、内ゲバは、それが革命闘争としてとらえられている以上、一方が他のセクトを完全に圧倒するとか、格好な闘争課題を得て暗黙のうちに双方が矛を納めていくということにならない限り、相手セクト幹部のせん滅を期して、「テロ」的様相を呈しつつ引き続き発生するものとみられる。 概要: 羽田からヘリで迎賓館へ。日米首脳会談が開かれた。 公開日: 1974年(昭和49年)11月22日: 動画分数: 5:48: カラー  この間、11月14日及び11月22日、米大統領来日(及び訪韓、訪ソ)阻止を叫んで極左暴力集団(マル青同)が敢行した「米・ソ両大使館襲撃事件」及び「在福岡米国領事館襲撃事件」において11人を建造物侵入、公務執行妨害等で、11月16日米大統領来日に抗議して東京国際空港に侵入して発煙筒を投げるなどした極左暴力集団(プロ青同)3人を航空法違反で、更には、米大統領来日当日(11月18日)、空港周辺の蒲田地区で取り組まれた極左暴力集団各派の「米大統領来日阻止闘争」において、デモの途中で警備に当たって  このため重信らは、昭和46年11月、赤軍派に「訣(けつ)別書」を送って、いわゆる「一本づり」等によって独自に同志を集め、「日本赤軍」と名乗ってPFLPとの連帯のもとに活動を進めることになった。 迎賓館でフォード米大統領(左)に同行したキッシンジャー米国務長官(右)と握手する田中角栄首相=東京都千代田区元赤坂の迎賓館で1974年(昭和49年)11月20日、谷田貝高幸撮影 毎日グラフ1974年12月8日号 8ページ掲載の別カット, 1974年(昭和49年)11月18日、フォード米大統領が米国大統領として初めて来日、キッシンジャー国務長官らと共に大統領専用機で厳戒の羽田空港に到着した。空港からヘリコプターで宿泊する迎賓館に入った。19日には迎賓館で歓迎行事が行われ、田中首相との第1回首脳会談に臨んだ。20日は2回目の首脳会談を行い、日米共同声明を発表した。21日に京都を訪れ、22日、大阪空港から韓国に向かった。  仙台市所在の本山製作所(従業員約750人、支店東京ほか)では、昭和47年の春闘で、同社の第1組合が大幅賃上げ要求と前副委員長の懲戒解雇処分の撤回を要求して争議に突入して以来、昭和49年12月末に至ってもなお解決をみていない。その過程で、第1組合に極左系の反戦派労働者が介入し、第2組合員及び同社社員との間で暴行、傷害等の不法事案が度々発生した。こうしたことから宮城県警察本部及び警視庁は双方に警告を行うとともに、警察部隊を出動させるなどの措置をとり、これまでに70件、279人(うち49年18件、74人)を検挙した。 (2) 「ラロック証言」と「核持込み反対・基地反対闘争」 フォード米大統領が乗った車に常に付き添う、シークレットサービス一行が乗り込んだ車=東京都千代田区元赤坂の迎賓館前で1974年(昭和49年)11月19日、吉野章朗撮影 毎日グラフ1974年12月8日号 14ページ掲載の別カット, 1974年(昭和49年)11月18日、フォード米大統領が米国大統領として初めて来日、キッシンジャー国務長官らと共に大統領専用機で厳戒の羽田空港に到着した。空港からヘリコプターで宿泊する迎賓館に入った。19日には迎賓館で歓迎行事が行われ、田中首相との第1回首脳会談に臨んだ。20日は2回目の首脳会談を行い、日米共同声明を発表した。21日に京都を訪れ、22日、大阪空港から韓国に向かった。  公労協、公務員共闘の官公労働者は、春闘及び秋季年末闘争において、全国各地でピケによる就労阻止を敢行した。このピケの大半は、全逓、自治労、動労等の青年労働者によって行われたもので、庁舎通用門や駅の線路、ホーム等に強固なピケを張って、スト不参加者の就労や郵便車、列車の運行を実力で阻止し、しかも警察部隊が出動するや検挙を免れるため、いちはやくピケを解くといった悪質巧妙なものであった。この過程で警察部隊が現場に出動し、警告、規制、検挙の措置を講じた事案が全国で166件(うち春闘133件、秋季年末闘争33件)に及んだ。  大阪府警察は、文世光の行為のうち国内法に触れる部分について独自の捜査を進めてきたが、12月25日文にかかる殺人予備、窃盗(けん銃)、密出入国、旅券不正入手、銃砲不法所持等の犯罪事実をもって大阪地方検察庁に送致するとともに、特別捜査本部を解散した。 然多発し、特に中小企業における反戦派介入の労働事件は、発生70件(昭和48年62件)、検挙62件、61人(昭和48年61件、92人)と前年を上回る発生をみた。反戦派介入の労働事件は、労働争議が長期どろ沼化したり、解雇処分配置転換等をめぐって労働紛争が続いている中小企業等において多く発生し、集団で管理者を監禁して暴行、傷害を加えたり、職場の施設を破壊するといった過激なものが多かった。  一方、9月13日午後4時30分ごろ、ハーグ所在のフランス大使館に「日本赤軍」を名乗る3人の日本人ゲリラが、けん銃を乱射しながら侵入し、セナール大使ら11人を大使室に監禁してこれを人質とし、フランスで逮捕、拘禁されている「古家優」の釈放等を要求するという事件を敢行した。 エ 切浜(きりはま)事件  本件は、北朝鮮スパイの潜入脱出ルート、いわゆる日本海ルートを担当している海上スパイ機関がスパイを脱出させるため迎えに来たという典型的なケースであるが、咸国上は、終始ゴムボートとの関係を否定するとともに遭難を主張し続けている(注)。, (注)これまでの密入国で逮捕された北朝鮮海上スパイ機関員は、昭和37年の解放号事件、46年の金南鮮事件、48年の温海事件等に見られるように、遭難を主張するのが例である。, (3) フォード米大統領来日時の警備  「パリ事件」・「ハーグ事件」は、「日本赤軍」がリビアに抑留されている「日航機乗っ取り爆破事件」の犯人Cの奪還と資金獲得を目的に、昭和49年秋ごろヨーロッパで日本の公館員又は商社幹部を誘かいして多額の身の代金を強奪することを計画したものの、その準備段階でDが逮捕され、その奪還のために「ハーグ事件」を敢行したものであり、「アラブの大義」とは無関係の「日本赤軍」の独走事件であった。  極左暴力集団は、「70年闘争」、「沖縄返還阻止闘争」のざ折にもかかわらず、依然として70年代に暴力革命を達成するとの方針のもとに、組織の非公然化、軍事化を進め、テロ・ゲリラ能力を高めることに重点を置きつつ、その再編強化に努め、革命のきっかけをつかむべく闘争を盛り上げようとしているので、引き続き厳戒を要する。  ところで、極左暴力集団の犯行とみられる爆発物事件は表7-4のとおりで、昭和44年以降これまでに166件発生(うち93件検挙)したが、多発した昭和44年(51件)、46年(62件)の状況が示すように、従来は大衆闘争の高揚といった客観情勢を背景にこの種事件が発生する傾向にあった。しかし、昭和49年の事件は客観情勢とは無関係に発生しており、爆発物自体も大型化、高性能化しているうえ、民間の代表的企業がねらわれた点に違いがあり、そこに問題の重大性がみられる。, ウ 退潮から反転の兆しをみせた街頭闘争 > アンティーク、コレクション  これに対して、警察は、警衛、警護に延べ約61万人を動員し、その万全を期した。警衛、警護を実施した主な事例は、表7-6のとおりである。この, ほか、警察は、重要防護対象に対しては、機動隊による警戒警備体制を強化し、テロ、ゲリラ、ハイジャック等の未然防止に努めた。.  こうしたなかで、日本共産党と他の野党の間の選挙共闘が不成立に終わるとか、共闘が成立した場合にも内部で不協和音が目立ち、このため共闘の効 羽田空港から迎賓館に向かうフォード米大統領が乗ったヘリコプターを警備するため、飛び立つ米軍の大型ヘリ=東京都大田区の羽田空港(東京国際空港)で1974年(昭和49年)11月18日、接待健一撮影 毎日グラフ1974年12月8日号 14ページ掲載の関連カット, 1974年(昭和49年)11月18日、フォード米大統領が米国大統領として初めて来日、キッシンジャー国務長官らと共に大統領専用機で厳戒の羽田空港に到着した。空港からヘリコプターで宿泊する迎賓館に入った。19日には迎賓館で歓迎行事が行われ、田中首相との第1回首脳会談に臨んだ。20日は2回目の首脳会談を行い、日米共同声明を発表した。21日に京都を訪れ、22日、大阪空港から韓国に向かった。 迎賓館で2回目の日米首脳会談に臨むフォード米大統領と田中角栄首相=東京都千代田区元赤坂の迎賓館で1974年(昭和49年)11月20日、谷田貝高幸撮影 毎日グラフ1974年12月8日号 8ページ掲載の別カット, ジェラルド・フォード米大統領来日。フォード大統領主催晩さん会、ホッドソン駐日大使(右)に迎えられ迎賓館に入る田中角栄首相。1974年11月, ジェラルド・フォード米大統領来日。両院議長主催レセプションで前尾繁三郎衆院議長(中央)河野謙三参院議長(右)と乾杯するフォード米大統領。ホテルオークラで。1974年11月, ジェラルド・フォード米大統領来日。日本記者クラブの昼食会で歓談するフォード米大統領と原四郎理事(読売新聞社副社長)。帝国ホテル富士の間で1974年11月, ジェラルド・フォード米大統領来日。日本記者クラブの昼食会で渡辺理事長(右端)から記念の万年筆を受けるフォード米大統領。左端は原四郎理事(読売新聞社副社長)。帝国ホテル富士の間で1974年11月, ジェラルド・フォード米大統領来日。日本記者クラブの昼食会で演説するフォード米大統領。1974年11月。帝国ホテル冨士の間で, ジェラルド・フォード米大統領来日。経済界代表と会見するフォード米大統領。迎賓館で。1974年11月, ジェラルド・フォード米大統領来日。登場した少年柔道選手と握手するフォード米大統領。日本武道館で。1974年11月, ジェラルド・フォード米大統領来日。日本武道館で身を乗り出して柔道に見入るフォード米大統領。1974年11月, ジェラルド・フォード米大統領来日。木村俊夫外相と会談するヘンリー・A・・キッシンジャー米国務長官。1974年11月。迎賓館で, ジェラルド・フォード米大統領来日。日米共同声明について記者会見するヘンリー・A・キッシンジャー米国務長官。プレスセンターで。1974年11月, ジェラルド・フォード米大統領来日。第2回日米首脳会談、左から木村俊夫外相、一人おいて田中角栄首相、フォード大統領、一人おいてキッシンジャー国務長官。迎賓館朝日の間で。1974年11月, 1974年(昭和49年)11月18日、フォード米大統領が米国大統領として初めて来日、キッシンジャー国務長官らと共に大統領専用機で厳戒の羽田空港に到着した。空港からヘリコプターで宿泊する迎賓館に入った。19日には迎賓館で歓迎行事が行われ、田中首相との第1回首脳会談に臨んだ。20日は2回目の首脳会談を行い、日米共同声明を発表した。21日に京都を訪れ、22日、大阪空港から韓国に向かった。 厳戒態勢の羽田空港に着陸したフォード米大統領が乗った大統領専用機。緊急事態に備えて米軍大型ヘリコプター(右端)が待機=東京都大田区の羽田空港(東京国際空港)で1974年(昭和49年)11月18日、松村明撮影 毎日グラフ1974年12月8日号 16ページ掲載の別カット, 1974年(昭和49年)11月18日、フォード米大統領が米国大統領として初めて来日、キッシンジャー国務長官らと共に大統領専用機で厳戒の羽田空港に到着した。空港からヘリコプターで宿泊する迎賓館に入った。19日には迎賓館で歓迎行事が行われ、田中首相との第1回首脳会談に臨んだ。20日は2回目の首脳会談を行い、日米共同声明を発表した。21日に京都を訪れ、22日、大阪空港から韓国に向かった。 [5] 物理的攻撃だけでなく、「ナーバス作戦」と称して相手方に襲撃を予告したり、犬、鶏の生首等を送り届けるなどの心理作戦も展開されている。  右翼は、春闘における「交通ゼネスト」の決行や参議院選挙をはじめとする各種選挙における日本共産党の進出に対し、更には、相次ぐ爆破事件を極左暴力集団によるものとみて、日本の将来を憂慮し、「いよいよ左右決戦の時が来た」などとして対決意識を強めた。このため左翼勢力に対する批判、抗議や各種の集会、デモ等に対する反対活動を強化し、各地で左翼要人の遊説や演説会等に対する妨害事案が発生した。特に、5月3日の憲法記念日には、自称大日本愛国党員が「憲法擁護運動」を停滞させるためには成田日本社会党委員長を殺害することが一番であるとして、ナイフを隠し持って、成田委員長の出席が予定されていた護憲連合主催の憲法施行27周年中央大会の会場である都内九段会館に赴き、機をうかがっていたところを警戒中の警察官に職務質問されて取り押さえられるという、まさに危機一髪の事件が発生した(成田社会党委員長殺人予備事件)。  第3は、日中航空協定の調印・日中航空路の開設、中国展の開催や各種中国代表団の来日に対し、「日本の赤化につながる」として反対活動を強力に展開したことである。  孔は、昭和27年当時、日本共産党員として在日本大韓民国居留民団の幹部宅焼き打ち事件、第三次小河内(おごうち)山村工作隊事件に加わり逮捕されたが、保釈後逃亡生活を続け、その間にスパイに仕立てあげられたものである。また、孔はスパイ活動の一環として、昭和48年には、日本人名義の旅券を不正入手して香港及び韓国へ密出国していたことが判明した。 > その他, 1974年11月18日にアメリカ第38代大統領フォードの来日を記念して作られた約44mmの大型メダル。, -------------------------------------------------------------------------.  これから先、日本共産党は、70年代後半における政治の不安定化、経済の低迷、社会基盤のぜい弱化という基本的情勢を見通しつつも、他方統一戦線づくりの停滞その他の「民主連合政府」構想、の行く手を阻む動きが現れてきたことを重視し、これを克服するため、全党を引き締め、「原則」重視の路線を推進するなど、情勢に即応した党活動の進展を図ることで、「民主連合政府」樹立の条件を整えることに全力を注ぐものとみられる。, (1) 最悪の事態を迎えた内ゲバ 帝国ホテルで行われた日本記者クラブ主催の昼食会で、スピーチをするフォード米大統領=東京都千代田区内幸町の帝国ホテルで1974年(昭和49年)11月20日、影山日出男撮影 毎日グラフ1974年12月8日号 20ページ掲載の関連カット, ジェラルド・フォード米大統領来日。迎賓館大食堂での大統領主催晩さん会で歓談される天皇陛下とフォード米大統領。1974年11月、皇室, ジェラルド・フォード米大統領来日。迎賓館大食堂での大統領主催晩さん会で乾杯する天皇陛下とフォード米大統領、左端はヘンリー・A・キッシンジャー米国務長官。1974年11月、皇室, ジェラルド・フォード米大統領来日。フォード米大統領の出迎えを受け、大統領主催晩さん会に出席する天皇・皇后両陛下。迎賓館で。1974年11月、皇室, ジェラルド・フォード米大統領来日。中曽根康弘通産相と会談するヘンリー・A・キッシンジャー米国務長官。迎賓館で。1974年11月, 1974年(昭和49年)11月18日、フォード米大統領が米国大統領として初めて来日、キッシンジャー国務長官らと共に大統領専用機で厳戒の羽田空港に到着した。空港からヘリコプターで宿泊する迎賓館に入った。19日には迎賓館で歓迎行事が行われ、田中首相との第1回首脳会談に臨んだ。20日は2回目の首脳会談を行い、日米共同声明を発表した。21日に京都を訪れ、22日、大阪空港から韓国に向かった。 ケント・ギルバート 私のような外国人にとって、天皇はとても分かりにくい存在です。その理由は、天皇というものが世界の中で極めて特殊で、昔も今も日本にしかない唯一無二の存在だからです。 米国を … ウ 内ゲバの原因  発生状況をみると、図7-1のとおり、極左暴力集団相互の内ゲバが193件で全体の67.5%を占め、そのほとんどが革マル派対反革マル派(とりわけ中核派)の抗争であった。, 場所別では、内ゲバは従来学園紛争等に関連して大学内で発生することが多かったが、個人「テロ」の色彩が濃くなるにつれ学外で発生する比率が高くなり、昭和49年には大学内84件、学外202件となった。地域的には、東京121件に対して、大阪32件、神奈川21件、福岡17件、広島、沖縄各14件等地方165件で、地方での発生が目立った。  昭和49年中の警衛、警護をめぐる情勢は、前年に引き続き極めて厳しいものがあった。すなわち、一連の爆破事件が発生するなかで、左翼諸勢力が「田中内閣打倒運動」、「フォード米大統領来日阻止闘争」等を繰り広げたのに対して、右翼は左翼諸勢力との対決、政府の各種政策の批判、中国展、日中定期航空路開設反対等の活動を活発に展開し、成田社会党委員長殺人予備事件(5月)、日本共産党演説会妨害事件等数多くの不法事案を敢行した。また、国外でも、激動する複雑な中東情勢を背景とする「シンガポール事件」等の一連の国際的ゲリラ事件、「朴大統領そ撃事件」、英国における「アン王女襲撃事件」が発生するなど世界各地でゲリラ活動、要人襲撃等の重大事件が続発した。  なお、最近5年間の労働争議に伴う不法事案の検挙状況は図7-3のとおりである。, 主なものとしては、まず、日教組による4月11日の地方公務員法違反被疑事件に関して、北海道、岩手、山形、東京、埼玉、山梨、愛知、三重、広島、福岡、長崎、大分の12都道県警察が捜査に着手して、関係の組合事務所や組合幹部自宅等の捜索を実施し、北海道、岩手、東京、埼玉、広島の5都道県警察が日教組中央執行委員長ら22人を検挙した。  昭和49年2月、「黒へル的高校生グループ」によって栃木県下の真岡警察署等に爆発物が連続的に仕掛けられ、警察官1人がひん死の重傷を負った事件が発生した(5人検挙、1人を指名手配中)。  このうち、「狭山裁判闘争」では、極左暴力集団は延べ約3万5,000人を動員したが、この間第81回公判日(9月26日)には約5,100人、判決言渡し日(10月31日)には昭和49年最高の約6,700人の動員を記録し、前年の最高中央動員数を上回った。なお同日、革労協は「東京高裁長官室乱入事件」を敢行した(5人検挙)。 (3) 原子力船「むつ」に対する反対行動  まず、警察庁においては、9月20日、「フォード米大統領訪日警備対策委員会」を設置し、また、11月11日には、「フォード米大統領訪日警備対策室」を設置して全国警察に対する指導と連絡調整、更に外務省等関係省庁及び米側警護担当者との連絡、情報交換等の諸対策を推進した。  昭和49年7月26日午後3時15分ごろ、ベイルートから中東航空211便でフランスのオルリ空港に入国しようとした自称「古家優」なる日本青年が、偽造旅券を行使(ほかにも偽造旅券、偽造米ドルを所持)してフランス警察に逮捕されたのを発端に、関係者11人がいもづる式に逮捕され、うち8人が国外追放になるという事件が発生した。 羽田空港から迎賓館に到着したフォード米大統領が乗る大統領専用ヘリコプター=東京都港区元赤坂の迎賓館で1974年(昭和49年)11月18日、平嶋彰彦撮影 毎日グラフ1974年12月8日号 14ページ掲載の関連カット, 1974年(昭和49年)11月18日、フォード米大統領が米国大統領として初めて来日、キッシンジャー国務長官らと共に大統領専用機で厳戒の羽田空港に到着した。空港からヘリコプターで宿泊する迎賓館に入った。19日には迎賓館で歓迎行事が行われ、田中首相との第1回首脳会談に臨んだ。20日は2回目の首脳会談を行い、日米共同声明を発表した。21日に京都を訪れ、22日、大阪空港から韓国に向かった。 (ア) 事件の概要 プロ青同が「羽田空港内発煙筒事件」(3人検挙)といったゲリラ的行動を敢行するなどして220人が検挙された。  このように、各種の活動を積極的に展開する一方で、右翼は組織の拡大にも力を注ぎ、昭和49年中に約110団体、2,300人の新しい組織が結成され、それぞれの団体が、結成の旗挙げとして、左翼との対決を標ぼうして街頭活動を中心に活発な活動を行った。しかし、このような組織の拡大の反面、解散したり有名無実化する団体も多く、そのために右翼の勢力は、約500団体、12万人と前年末とほぼ同様の勢力にとどまった。  内ゲバの原因としては、他派を切り崩そうとしてのトラブルや、学生自治会の主導権争いといった点も見逃せないが、基本的には思想集団特有のか烈な「分派闘争」である。すなわち、極左暴力集団各派はそれぞれ自派の革命理論、戦術方針こそが唯一の正しいものであって、自派以外は革命を混乱させる有害な勢力-革命の敵であるから、これをせん滅しなければならない、との「分派撃滅」の理論をよりどころにして、内ゲバに狂奔している。 [2] 次いで相手のすきをねらって、場所を選ばず奇襲する。その際、マンションの隣室のドアを回覧板と偽って開けさせ、土足のまま駆け抜けベランダから相手の部屋に突入した例や、屋上から縄ばしごを使ってベランダ越しに相手の部屋に侵入した例もある。このため内ゲバによって一般市民が迷惑を被る機会が増えている。, [3] 使用する凶器も、鉄パイプ、バール、おの、とび口、刃物とエスカレートし、しかも主要な凶器である鉄パイプは携行に便利なように伸縮式のものを考案したり、これら凶器をボストンバッグ等に隠して携行するなど、携帯方法も巧妙になっている。  一方、国際情勢を反映して国際交流が活発化し、国内外要人の往来が増加した。田中首相は5度にわたり諸外国を歴訪し、フォード米大統領をはじめとする重要外国要人が多数来日し、各種の国際会議が開催され、また、中国大型代表団が相次いで来日した。 b 警察措置 羽田空港到着後、手を振って迎賓館に向かうヘリコプターに乗り込むフォード米大統領。ヘリには米国大統領紋章が付いている=東京都大田区の羽田空港(東京国際空港)で1974年(昭和49年)11月18日、出版写真部員撮影 毎日グラフ1974年12月8日号 14頁のカット, 1974年(昭和49年)11月18日、フォード米大統領が米国大統領として初めて来日、キッシンジャー国務長官らと共に大統領専用機で厳戒の羽田空港に到着した。空港からヘリコプターで宿泊する迎賓館に入った。19日には迎賓館で歓迎行事が行われ、田中首相との第1回首脳会談に臨んだ。20日は2回目の首脳会談を行い、日米共同声明を発表した。21日に京都を訪れ、22日、大阪空港から韓国に向かった。  9月18日夜、警察官が密入国事犯取締りのため県下城崎沿岸一帯の警戒に従事中、切浜海岸岩場で船外機付きゴムボートに乗っている不審者(咸国上)を発見した。咸は、やにわにエンジンを始動させて逃げようとし、付近の岩礁に乗り上げたために海中に飛び込み逃走を図ったが、警察官が追跡して密入国現行犯として逮捕した。更に、翌日午前10時20分ごろ、現場近くの道路上で不審な男(G)を発見し、職務質問したところ、乱数表、暗号表等のスパイ用具を所持しており、北朝鮮へ密出国しようとしたが迎えの者と接触できないまま現場付近にいたことが分かったので、出入国管理令違反(密出国企図)で同人を逮捕した。, 取調べの結果、Gは昭和47年3月、日本で北朝鮮スパイの働きかけを受けて、同年4月、秋田県象潟(きさがた)海岸から密出国して北朝鮮に行き、2年間のスパイ教育を受けた後、49年5月、外国人登録証切替えのため切浜海岸から密入国したが、暗号指令を受け再び同海岸から北朝鮮に向けて脱出を企てたものであった。また、Gは北朝鮮のスパイ機関から「日本海での密入国は99%発見されることはない、迎えの者が捕まっても徹底して遭難を主張するから安心せよ」と指導されていたことも判明した。  一方、昭和49年の日教組定期大会は、当初、岡山市での開催が伝えられたので、右翼は早くから岡山市へ乗り込んで日教組批判の街頭宣伝や県、市当局に対する抗議、要請を行った。その後、大会は種々の事 わが国の歴史は天皇の存在抜きには語れない。「万世一系」「万邦無比」の言葉が象徴するように、古代から現代に至るまで天皇は決して途絶えることがなかった。それは国民の安寧と幸せを祈り続ける天皇の姿が、日本人の心に深く刻まれているからに他ならない。ならば、唯一無二たる天皇の存在は海外の目にはどう映るか。, 私たちは、ウィリアムズバーグで、貴国訪問の旅の第一夜を過ごしました。建国当時の面影を今に伝える、かの地の美しい街並みと、落ち着いた風情に触れて、旅の疲れを十分に癒すことができました。今宵、この歴史的なホワイトハウスで、閣下と席をともにしておりますと、貴国の建国当時のことに想いがめぐります。(中略)私は多年、貴国訪問を念願にしておりましたが、もしそのことが叶(かな)えられた時には、次のことを是非(ぜひ)貴国民にお伝えしたいと思っておりました。と申しますのは、私が深く悲しみとする、あの不幸な戦争の直後、貴国が、我が国の再建のために、温かい好意と援助の手をさし延べられたことに対し、貴国民に直接感謝の言葉を申し述べることでありました。当時を知らない新しい世代が、今日、日米それぞれの社会において過半数を占めようとしております。しかし、たとえ今後、時代は移り変わろうとも、この貴国民の寛容と善意とは、日本国民の間に、永く語り継がれていくものと信じます。, 1952年、アメリカ、アイダホ州生まれ。70年にブリガムヤング大学に入学し、71年にモルモン宣教師として初来日。80年、同大学大学院を修了し、法学博士号・経営学修士号を取得。その後、国際法律事務所に就職し、法律コンサルタントとして再び来日。タレント業にも携わり、『世界まるごとHOWマッチ』などの番組に出演する。著書に『まだGHQの洗脳に縛られている日本人』(PHP研究所)など多数。.  この間、前段には「弱者救済」を掲げ、関係機関への請願、陳情、抗議等の中央行動を行ったのをはじめ、初の労働4団体(総評、同盟、中立労連、新産別)共催による「インフレ粉砕大集会」(2月)、「インフレ阻止国民共闘」の主催による「国民大集会」(3月)を開くくなどして幅広く各層の結集を図った。その後、公労協の違法ストを軸に、3波にわたる大規模な「統一スト」を行った。特に第3波ストは、4月8日から公労協、全交運の「交通スト」等を中心に、公務員、民間労働組合も加え、「6日間にわたる連鎖的なストライキ等」という我が国労働運動史上かつてない大規模かつ長期のものであった。このストライキには延べ259単産約573万人が参加し、特にピーク時の4月11日には、79単産約223万人が参加して1日のストでは春闘史上最高の規模となった。1週間近くに及んだこのスト等の影響は極めて大きく、国鉄の列車の運休は8万7,170本、国鉄の減収約131億円、「交通スト」等に伴う国民の足への影響延べ約1億6,500万人、郵便物の滞貨約1億 フォード大統領の来日は、我が国が国賓として招へいしたものであり、しかも現職米大統領としては初の来日であった。この国家的行事を迎えるに当たり、警察は、昭和35年当時のアイゼンハワー大統領の来日が反対運動の高揚等を理由に 迎賓館にフォード米大統領を表敬訪問した美濃部亮吉・東京都知事=東京都港区元赤坂の迎賓館で1974年(昭和49年)11月19日、接待健一撮影 毎日グラフ1974年12月8日号 5ページ掲載の関連カット, 1974年(昭和49年)11月18日、フォード米大統領が米国大統領として初めて来日、キッシンジャー国務長官らと共に大統領専用機で厳戒の羽田空港に到着した。空港からヘリコプターで宿泊する迎賓館に入った。19日には迎賓館で歓迎行事が行われ、田中首相との第1回首脳会談に臨んだ。20日は2回目の首脳会談を行い、日米共同声明を発表した。21日に京都を訪れ、22日、大阪空港から韓国に向かった。 (ウ) 「パリ事件」・「ハーグ事件」 ウ 孔泳淳事件 フォード米大統領来日 現職初公式訪問 (1974年11月21日) 1974年(昭和49年)11月18日、フォード米大統領が米国大統領として初めて来日、キッシンジャー国務長官らと共に大統領専用機で厳戒の羽田空港に到着した。空港  横須賀、佐世保、岩国、ホワイトビーチ(沖縄)等の基地での原子力潜水艦その他の米艦船入港反対、北富士及びキャンプハンセン(沖縄)の演習場に対する「原子砲」持込み反対、所沢、千歳、泡瀬(沖縄)の各基地に対するOTH通信基地反対等「核反対」の課題と結びつけた闘争を展開した。こうした闘争に、10月7日以降だけで「基地闘争」全体(延べ約28万5,000人)のほぼ70%に当たる約20万人を動員した。 a 事件の概要  警察は、これら右翼の活動に対し、違法にわたるおそれのあるものについては、警告、制止等の措置を積極的に講じて不法事案の未然防止に努めたほか、違法事案についてはこれを見逃すことなく検挙をもって臨み、この結果、表7-5のとおり昭和49年中に、暴行、傷害、暴力行為等処罰に関する法律違反等で181件、359人を検挙した。, 左翼諸勢力等は、「反インフレ・生活防衛」、「米大統領来日反対」、「反核・反基地・反安保」、「反公害」等を主要テーマに多様な形で大衆行動を展開した。  これらの行動への動員は全国で延べ約176万9,000人を数え、大衆行動全動員数の約25%にも達した。「生活防衛闘争」は、1日の動員規模では必ずしも大きいものはなかったが(最高が3月3日の物価メーデーで全国約14万9,000人、中央約5万8,000人)、集会、デモだけでなく、企業、商社等に対する直接追及等多彩な形で展開され、広範な国民各層を行動に参加させて持続的な高まりをみせたことが大きな特徴であった。 b 警察措置  これらの大衆行動には、全国で延べ約731万2,000人(うち、極左系約25万4,000人)、中央で延べ約87万1,000人(うち、極左系約11万3,000人)が動員され、昭和48年の動員数全国延べ約622万2,000人、中央延べ約73万6,000人を大きく上回った。 に展開した。 ア 発生状況  その後昭和48年12月27日、イギリス人「H」名義の偽造旅券を使ってカナダのトロントから羽田へ密入国し、カナダで受けた指令に基づいて、昭和49年1月11日から3日間、ジャパンタイムズ紙に「ヨーロッパ人、年齢28歳、 大統領専用機で羽田空港に到着、タラップを降りるフォード米大統領=東京都大田区の羽田空港(東京国際空港)で1974年(昭和49年)11月18日、接待健一撮影 毎日グラフ1974年12月8日号 14ページ掲載の別カット, 1974年(昭和49年)11月18日、フォード米大統領が米国大統領として初めて来日、キッシンジャー国務長官らと共に大統領専用機で厳戒の羽田空港に到着した。空港からヘリコプターで宿泊する迎賓館に入った。19日には迎賓館で歓迎行事が行われ、田中首相との第1回首脳会談に臨んだ。20日は2回目の首脳会談を行い、日米共同声明を発表した。21日に京都を訪れ、22日、大阪空港から韓国に向かった。 迎賓館に駐機された大統領専用ヘリコプター。ヘリには米国大統領紋章が付いている=東京都港区元赤坂の迎賓館で1974年(昭和49年)11月19日、接待健一撮影 毎日グラフ1974年12月8日号 14ページ掲載の関連カット, フォード米大統領来日 大統領主催の晩餐会に皇太子ご夫妻とキッシンジャー米国務長官(元赤坂の迎賓館で)。1974年11月20日, フォード米大統領が米国大統領として初めて来日 宮中晩さん会で皇居宮殿を訪れたフォード大統領を出迎える昭和天皇 1974年(昭和49年)11月18日、フォード米大統領が米国大統領として初めて来日、キッシンジャー国務長官らと共に大統領専用機で厳戒の羽田空港に到着した。空港からヘリコプターで宿泊する迎賓館に入った。19日には迎賓館で歓迎行事が行われ、田中首相との第1回首脳会談に臨んだ。20日は2回目の首脳会談を行い、日米共同声明を発表した。21日に京都を訪れ、22日、大阪空港から韓国に向かった。 宮中晩さん会で皇居宮殿を訪れたフォード米大統領を出迎える天皇陛下(昭和天皇)=東京都千代田区の皇居で1974年(昭和49年)11月19日、出版写真部員撮影 毎日グラフ1974年12月8日号 7頁のカット 日本/東京都/千代田区・皇居 1974年11月19日撮影, フォード米大統領が米国大統領として初めて来日 晩さん会で皇居を訪れたフォード大統領を出迎えた昭和天皇 1974年(昭和49年)11月18日、フォード米大統領が米国大統領として初めて来日、キッシンジャー国務長官らと共に大統領専用機で厳戒の羽田空港に到着した。空港からヘリコプターで宿泊する迎賓館に入った。19日には迎賓館で歓迎行事が行われ、田中首相との第1回首脳会談に臨んだ。20日は2回目の首脳会談を行い、日米共同声明を発表した。21日に京都を訪れ、22日、大阪空港から韓国に向かった。 宮中晩さん会で皇居宮殿を訪れたフォード米大統領と出迎えた天皇陛下(昭和天皇)=東京都千代田区の皇居で1974年(昭和49年)11月19日、出版写真部員撮影 毎日グラフ1974年12月8日号 7頁のカット 日本/東京都/千代田区・皇居 1974年11月19日撮影, フォード米大統領が米国大統領として初めて来日 晩さん会で皇居を訪れたフォード大統領を出迎えた昭和天皇 1974年(昭和49年)11月18日、フォード米大統領が米国大統領として初めて来日、キッシンジャー国務長官らと共に大統領専用機で厳戒の羽田空港に到着した。空港からヘリコプターで宿泊する迎賓館に入った。19日には迎賓館で歓迎行事が行われ、田中首相との第1回首脳会談に臨んだ。20日は2回目の首脳会談を行い、日米共同声明を発表した。21日に京都を訪れ、22日、大阪空港から韓国に向かった。 宮中晩さん会で皇居宮殿を訪れたフォード米大統領と出迎えた天皇陛下(昭和天皇)=東京都千代田区の皇居で1974年(昭和49年)11月19日、松村明撮影 毎日グラフ1974年12月8日号 7ページ掲載の別カット 日本/東京都/皇居 1974年11月19日撮影, フォード米大統領が米国大統領として初めて来日 宮中晩さん会で皇居宮殿を訪れたフォード大統領を出迎える昭和天皇 1974年(昭和49年)11月18日、フォード米大統領が米国大統領として初めて来日、キッシンジャー国務長官らと共に大統領専用機で厳戒の羽田空港に到着した。空港からヘリコプターで宿泊する迎賓館に入った。19日には迎賓館で歓迎行事が行われ、田中首相との第1回首脳会談に臨んだ。20日は2回目の首脳会談を行い、日米共同声明を発表した。21日に京都を訪れ、22日、大阪空港から韓国に向かった。 宮中晩さん会で皇居宮殿を訪れたフォード米大統領を出迎える天皇陛下(昭和天皇)=東京都千代田区の皇居で1974年(昭和49年)11月19日、松村明撮影 毎日グラフ1974年12月8日号 7ページ掲載の別カット 日本/東京都/皇居 1974年11月19日撮影, フォード,ジェラルド 米大統領 日本訪問・宮中晩さん会に出席 天皇皇后両陛下主催の宮中晩さん会。左3人目から皇太子殿下、皇后陛下、フォード米大統領、天皇陛下、皇太子妃美智子殿下=昭和49年11月19日、皇居宮殿「豊明殿」で 日本/東京都/皇居宮殿「豊明殿」 1974年11月19日撮影, フォード,ジェラルド 米大統領 日本訪問・宮中晩さん会に出席、天皇陛下の出迎えを受ける 天皇皇后両陛下主催の宮中晩さん会に出席のフォード米大統領(左)をお迎えする天皇陛下(右)=皇居宮殿南玄関で 日本/東京都/皇居宮殿南玄関 1974年11月19日撮影, フォード,ジェラルド 米大統領 日本訪問・宮中晩さん会に出席 天皇皇后両陛下主催の宮中晩さん会であいさつされる天皇陛下(右から2人目)。左から皇太子殿下、皇后陛下、フォード米大統領、右は皇太子妃美智子殿下=皇居宮殿「豊明殿」で 日本/東京都/皇居宮殿「豊明殿」 1974年11月19日撮影, フォード米大統領来日 歓送行事、両国の国家吹奏を受けられる天皇陛下と米大統領(元赤坂の迎賓館で)。1974年11月21日, フォード米大統領来日 大統領の出迎え受け、大統領主催の晩餐会に向かう天皇・皇后両陛下(元赤坂の迎賓館で)。1974年11月20日, ジェラルド・フォード米大統領来日。両国の国家吹奏をうけるフォード米大統領と天皇陛下。迎賓館で、皇室。1974年11月, ジェラルド・フォード米大統領来日。フォード米大統領と親善の握手をかわす天皇陛下。迎賓館で、皇室。1974年11月, 天皇裕仁(後・昭和天皇) 米大統領フォード来日 宮中晩餐会で歓迎の言葉朗読, (Photo by Mainichi Newspaper/AFLO) [2400], 天皇裕仁(後・昭和天皇) 米大統領フォード来日 迎賓館前で共に両国国歌に応える, (Photo by Mainichi Newspaper/AFLO) [2400], 来日のフォード米大統領と天皇, (Photo by Mainichi Newspaper/AFLO) [2400], 1974年(昭和49年)11月18日、フォード米大統領が米国大統領として初めて来日、キッシンジャー国務長官らと共に大統領専用機で厳戒の羽田空港に到着した。空港からヘリコプターで宿泊する迎賓館に入った。19日には迎賓館で歓迎行事が行われ、田中首相との第1回首脳会談に臨んだ。20日は2回目の首脳会談を行い、日米共同声明を発表した。21日に京都を訪れ、22日、大阪空港から韓国に向かった。 大会」等、様々な立場から多様な「反インフレ・生活防衛」の行動が繰り広げられた。  このため、「このような情勢を招いた責任の一端は、政府、自民党の政治姿勢にある」として、政府、自民党に対する批判を強め、「挙党一致の体制を確立して国民の信頼を回復し、左翼対決に徹した政策を推進せよ」との抗議、要請活動を活発に行った。 羽田空港に到着したフォード米大統領が乗った大統領専用機=東京都大田区の羽田空港(東京国際空港)で1974年(昭和49年)11月18日、松村明撮影 毎日グラフ1974年12月8日号 16ページ掲載の別カット, 1974年(昭和49年)11月18日、フォード米大統領が米国大統領として初めて来日、キッシンジャー国務長官らと共に大統領専用機で厳戒の羽田空港に到着した。空港からヘリコプターで宿泊する迎賓館に入った。19日には迎賓館で歓迎行事が行われ、田中首相との第1回首脳会談に臨んだ。20日は2回目の首脳会談を行い、日米共同声明を発表した。21日に京都を訪れ、22日、大阪空港から韓国に向かった。 (イ) 「シンガポール事件」・「クウェイト事件」  すなわち、社会党、共産党、総評系勢力が「60年安保以上の闘争」を呼号  民間の中小企業においては、経済不況のあおり等から労使間が激しく対立し、その過程で第2組合が生まれ、第1組合との間での組織対立から120件に及ぶ暴力事犯の発生をみたが、そのなかで、反戦派介入等による悪質な暴力事犯が目立った。, 警察は、天皇及び皇族に対しては警衛を、国内外の要人に対しては警護を実施し、それぞれ身辺の安全を期している。また、国会、総理官邸、外国公館、空港等極左暴力集団、右翼等によるテロ・ゲリラ攻撃の対象となるおそれのある施設(重要防護対象)に対しては、厳重な警戒警備を行っている。 2,000万通に達したといわれる。, このように昭和49年の春闘は、春闘共闘委員会に参加した組合とそれには参加しなかったが春に賃上げ交渉を行った組合を合わせると、総数927万人(前年比8万人増、労働省発表)の労働者が参加し、また、ストライキの規模及び賃上げ率(民間大手平均2万8,981円、32.9%)のいずれにおいても春闘史上最高となった。しかし、「国民春闘」の目玉として打ち出した「弱者救済」については、内容の乏しいものに終わったとして、中小・零細企業労働者等からの厳しい批判もみられた。  こうして「むつ」は、10月15日 まで51日間も海上での漂流を余儀なくされ、母港は撤去されることとなった。  警察は、このような内ゲバに対し、不穏動向の早期は握に努める一方、必要な警戒態勢をとるなど、警察力を総合的に発揮してこれに当たるとともに関係機関や広く一般市民にも、不審動向の迅速な通報等協力を呼びかけるな  現在、「日本赤軍」は重信を中心に約20人から成り、これを国内外にいる日本人シンパ層が支持しているものとみられており、中東のレバノン等を本拠に、ヨーロッパ各地に活動家を配置して、偽造旅券等を使ってひん繁に往来するなど密接な連絡をとりながら動いている。  李日学は、朝鮮労働党員として北朝鮮元山市所在の農業協同組合に勤務していたが、昭和48年4月、対日スパイ要員に採用され、約3箇月間のスパイ教育を受けた後、7月中旬ごろ、日本円200万円、米ドル紙幣、乱数表、暗号表等を携え、北朝鮮から高速艇で石川県猿山岬付近の海岸に密入国した。上陸後、名古屋市に潜入し、在日朝鮮人宅をアジトにして、本国からの暗号放送による指令を受けながら、在日韓国系商工業者をスパイに養成し、スパイ活動を行わせることを任務として活動していた。  文世光は韓国の裁判で、第1審(10月19日死刑判決)、第2審(11月20日控訴棄却)とも起訴事実を認め、12月17日大法院で上告棄却となって死刑が確定し、12月20日執行された。 [1] 極左暴力集団各派は、「人民革命軍・武装遊撃隊」(中核派)、「特別行動隊」(革マル派)、「プロレタリア突撃隊」(反帝学評)等を内ゲバに投入し、攻撃をかけようとねらいをつけた相手の動静を徹底的に調査する。  クブリッキーは、チェコスロバキア空軍に入隊後、軍事スパイ養成学校においてスパイ教育を受けた後、オーストリア、イタリア、西ドイツ、アメリカ、カナダを転々とし、その間伝書使的役目を主としたスパイ活動を行っていたようである。  また、共闘、統一戦線の問題をめぐっても、日本共産党と他の野党の間で路線、イデオロギーの相違に基づく本格的な論争が繰り返された。 皇居訪問の帰途、二重橋前付近で車を降りて、歓迎の小旗を振る人たちに近づき握手をするフォード米大統領=東京都千代田区の皇居外苑で1974年(昭和49年)11月19日、橋本保治撮影 毎日グラフ1974年12月8日号 11ページ掲載の別カット, 1974年(昭和49年)11月18日、フォード米大統領が米国大統領として初めて来日、キッシンジャー国務長官らと共に大統領専用機で厳戒の羽田空港に到着した。空港からヘリコプターで宿泊する迎賓館に入った。19日には迎賓館で歓迎行事が行われ、田中首相との第1回首脳会談に臨んだ。20日は2回目の首脳会談を行い、日米共同声明を発表した。21日に京都を訪れ、22日、大阪空港から韓国に向かった。 オークション 迎賓館での歓迎行事で出席者にあいさつするフォード米大統領と  スパイは、公館員、貿易関係者、留学生等に身分を変えて日本に潜入し、表面は通常人と変わらない生活をしているが、裏では特殊無線機等のスパイ用具を使い、日本人を巧妙に手先に組み込んで各種の秘密を盗んでいる。 私のような外国人にとって、天皇はとても分かりにくい存在です。その理由は、天皇というものが世界の中で極めて特殊で、昔も今も日本にしかない唯一無二の存在だからです。, むろん天皇はローマ教皇とも、欧州の王室とも違います。歴代中華王朝の皇帝や、世襲の独裁者とも違います。比較対象として、他に類推する存在がないのです。, ようやく「なるほど、そういうことだったのか!」とかなり理解が進んだと実感できるようになったのは、実はここ数年の話です。日本語や日本文化について、大学でいくら幅広く勉強していても、天皇について深く考察することはありませんでした。天皇が日本という国の中心であり、大黒柱のはずなのに、ポッカリ空白のままだったのです。, 天皇について、なかなか理解できない米国人ですが、過去に一度、天皇の大御心(おおみこころ)に直接触れる機会がありました。そのことについて触れておきましょう。, 昭和50(1975)年9月、昭和天皇と香淳皇后両陛下が戦後初めて米国を公式訪問なされました。当時、天皇に対する米国民の感情は、決して良好とは言えませんでした。, 戦後30年たっても米国民はパールハーバーを忘れてはおらず、天皇の戦争責任を問う声は今よりもはるかに大きなものでした。そんな厳しい世論の中、昭和天皇はホワイトハウスでのフォード大統領夫妻が主催した歓迎晩餐(ばんさん)会で、次のようなお言葉を述べられたのです。.
2020 フォード大統領 来日