一方で、正しい戦争であったとしても、戦争がもたらす悲惨さを常に直視する必要があることを戒めています。 ****「大ヒット作品」「雄弁」=平和賞演説に好意的反響-米***** 以下は、 アメリカ合衆国大統領 バラク・オバマが、2009年12月10日の午後1時44分から2時20分にかけて( 現地時間 ) ノルウェー の オスロ市庁舎 にて行った演説である。 米国の軍事攻撃が続くアフガニスタンとパキスタンを取材エリアに持つ私は、オバマ米大統領のノーベル平和賞受賞を、とても不快な気分で眺めている。授賞理由は「対テロ」戦と関係ないにしろ、米軍の最高指揮官の受賞である。出口の見えない戦渦の中で、アフガンやパキスタンでは罪のない市民が空爆やテロに巻き込まれ、血と涙を流し続けている。この違和感を私は整理できないでいる。 http://www.flickr.com/photos/aktivioslo/4174350023/, http://news.goo.ne.jp/article/newsengm/world/newsengm-20091211-01.html. そればかりか、国家間の戦争は国家内の戦争に急速に取って代わられつつある。民族間・宗派間の紛争の復活、分離独立運動や反乱、破綻国家の増加――これらはいずれも文民を急速に終わりなき混乱へと陥れている。今日の戦争では、兵士より文民の方が多く殺害される。将来の紛争の種が蒔かれ、経済は破綻し、市民社会はずたずたに引き裂かれ、難民は増加し、児童は傷付いている。, 私は本日、戦争を巡る諸問題に対する明確な解決策を用意していない。私が知っているのは、これらの課題に対処するには、数十年前に大胆に行動した人々と同様の、展望や勤勉性や忍耐を要するということである。同時にそれは、正当な戦争という観念と、正当な平和(の実現)という急務に関する新たな方策を、我々に求めるのである。, 我々は、暴力的紛争を我々の存命中に根絶することはできないという、厳しい真実を認識することから始めねばならない。諸国が――単独行動か共同行動かを問わず――、武力行使が必要であるばかりか、道義的に正当化されると考える時もあろう。, 私は、遥か以前にマーティン・ルーサー・キング・ジュニアがこの同じ式典で語ったことを心に留めつつ、この声明を為している。彼は語った。「暴力は決して恒久平和をもたらさない。それは何らの社会問題をも解決しない。それは単に新たな、より複雑な問題を生み出すのみである」と。キング牧師の畢生の仕事の直接的結果としてここに立っている私は、非暴力という道義的な力の生き証人である。私は承知している。ガンディーとキングの信条と人生には、弱いものも、消極的なものも、浅はかな[17]ものもないということを。, だが、自国を保護し擁護すると宣誓した[18]国家元首である私は、彼らの先例のみに倣う訳にはゆかない。私は現実の世界と対峙しており、米国民に対する脅威に直面しながら傍観する訳にはゆかない。何故ならば、誤解なきように言えば、世界には確かに悪が存在するのである。非暴力運動はヒトラーの軍隊を止められなかった。交渉では、アル・カーイダの指導者らに武器を放棄させられない。時として武力が必要だと語ることは、諦観ではない――それは過去を、即ち人間の不完全性や理性の限界を、認識することなのである。, 私はこの点を提起し、この点から始めたい。何故ならば、如何なる理由であれ、多くの国々には今日、軍事行動に関する深い葛藤があるからである。時として、これは唯一の軍事的超大国たる米国への反射的な疑念を伴う。, だが、世界は思い出さねばならない。第二次大戦後の世界に安定をもたらしたのは、ひとり国際機関のみではない――単に条約や宣言だけではない――ということを。アメリカ合衆国は60年以上に亙り、自国民の血と軍事力とによって、全世界の安全を保障するのを助けてきた。我々が如何なる過ちも犯したとしても、これは明白な事実なのである。米兵の奉仕と犠牲は、ドイツから韓国に至るまでの平和と繁栄を促進し、バルカンのような地に民主主義が根付くのを可能にしてきた。我々がこうした重荷に耐えてきたのは、己の意思を強制したいが故ではない。賢明なる自己利益のために、そうしてきたのである――子孫のため、より良い未来を求めるが故であり、他国の子孫が自由と繁栄の中で生きられれば、彼ら(=我々の子孫)の暮らしもより良くなるであろうと信ずるが故である。, 故に、戦争という手段は、平和を維持する上で役割を確かに有するのである。しかしこの真実は、また別の真実――如何に正当化されようとも、戦争は人類に悲劇を約束するという真実――を伴わざるを得ない。兵士の勇気と犠牲は栄光に満ち、国家や大義や戦友への献身を示している。だが、戦争自体は決して輝かしくはないし、我々は決してそのように持ち上げてはならないのである。, 故に、我々の課題の1つは、一見相反するこれら2つの真実――戦争は時として必要であり、また戦争はある程度において人間の愚かさの発露であるという真実――を調和させることである。具体的には、かつてケネディ大統領が訴えた課題に努力を振り向けねばならない。彼は語った。「人の本性の急激な変革にではなく、人の(作る)諸制度の漸進的進化に基づいた、より実際的かつ実現可能な平和に焦点を当てようではないか」と。.  「頼むから聞いてくれ」。11月上旬、アフガンの首都カブール郊外にある国内避難民キャンプで、避難民たちが空爆で犠牲となった家族の遺体の写真を手に集まってきた。写真には、血だらけで地面に横たわる幼子らの姿がある。 ‚é‚ɂ́AJavaScript‚ðu—LŒøv‚É‚µ‚Ä‚­‚¾‚³‚¢B, ‰p’PŒêƒ}ƒXƒ^[7000Œê{5–œŒêŽ«‘+”­‰¹‹@”\iƒtƒŠ[”Łj 6.3. 【Just War】 非暴力の理想だけでは守れないものがあり、ときに「正しい戦争」が必要だとする“現実”を訴えるオバマ大統領の主張は、スルスルと耳を通っていくものがありますが、その「正しい戦争」が必要とされたサダム・フセイン政権やアルカイダの脅威がいかなるものだったのか、その「正しい戦争」によって現地でもたらされたものがなんだったのかという、もうひとつの“現実”にも冷静に目を向ける必要があります。 大気汚染悪化都市で花火禁止 印 オバマ氏らしいきっぱりした曖昧さ こんなに物議をかもしたノーベル平和賞は珍しいというくらいの平和賞を受賞し、オバマ氏は、受賞演説で「Just War(正当な戦争、正義の戦争)」という言葉を繰り返 … ) 【戦争被害者の視点】 いささか旧聞に属する話となってしまいましたが、アメリカ・オバマ大統領は10日、オスロでノーベル平和賞を受賞し、その授賞式で「平和の理想」と「戦争の現実」とのはざまで、平和を希求しながらも「正しい戦争(Just War)」を戦う苦悩を吐露しました。 オバマ大統領は現在の心中について、「我々は戦争を戦っている最中です。そして私は、何千人もの若いアメリカ人を遠い国の戦地に派遣する、その責任を負っています。私が戦地に送る若いアメリカ人の何人かは人を殺すでしょうし、何人かは殺されるでしょう」「なので私は、武力紛争の代償について深く感じ入りながら、ここへ参りました。戦争と平和の関係、そして一方でもう片方を置き換えるためにどれほど努力しなくてはならないのか、そういう難問でいっぱいになりながら、私はここへやってきたのです」と語っています。 new! )は、参考になりました。 バラク・フセイン・オバマ2世は、アメリカ合衆国の政治家・弁護士である。第44代アメリカ合衆国大統領(在任期間: 2009年1月20日 – 2017年1月20日)を務めた。民主党に所属し、アフリカ系アメリカ人・有色人種初の大統領となった。2005年1月3日から2008年11月16日までイリノイ州選出の連邦上院議員、1997年1月8日から2004年11月4日までイリノイ州議会の上院議員を務めた。 2009年に大統領となったオバマ氏は同年4月のチェコのプラハでの演説で核兵器をすべてなくす核廃絶の誓いを強く述べた。同年10月にはその「核兵器のない世界の平和と安全を追求する決意」を理由にノーベル平和賞を受賞した。 その実際的手順とは何であろうか? (http://news.goo.ne.jp/article/newsengm/world/newsengm-20091211-01.html オバマ米大統領は10日のノーベル平和賞授賞式の演説で「核兵器なき世界」を追求する決意を示すとともに、脅威が多様化した現代では「米国は単独で行動できない」と述べ、国際協調主義で米国が世界を先導する姿勢を明示した。 いささか旧聞に属する話となってしまいましたが、アメリカ・オバマ大統領は10日、オスロでノーベル平和賞を受賞し、その授賞式で「平和の理想」と「戦争の現実」とのはざまで、平和を希求しながらも「正しい戦争(Just War)」を戦う苦悩を吐露しました。 しかし、アメリカのメディアには概ね好評だったようです。 ******************************** 「なので確かに、戦争のための道具には、平和を守るための役割があります。しかしその真実の横には、いかに正当な戦争であっても、戦争は人間に悲劇をもたらすのだという真実も、常に並存しているのです。兵士の果敢な犠牲は、国への献身、大儀への献身、戦友たちへの献身に溢れ、栄光に充ち満ちています。しかし戦争そのものに決して栄光などなく、決して戦争をそのように持ち上げてはなりません」 オバマ ノーベル平和賞演説/まるごと 聞き取りドリル 価格: 660円(手数料・税込) お支払い手続きへ進む その他のお支払い. オバマ米大統領が10日にオスロのノーベル平和賞授賞式で行った記念演説に対し、米メディアでは「大ヒット作品」(ロサンゼルス・タイムズ)、「雄弁に持論を展開した」(ニューヨーク・タイムズ)などと、おおむね好意的な反響が目立った。 ")」 「なので私たちも、あるべき世界の姿に向かって手を伸ばしましょう。それは私たち一人一人の魂の中で未だうごめく、神々しい欠片のきらめきなのです(So let us reach for the world that ought to be – that spark of the divine that still stirs within each of our souls)」 「この世に戦争はあるのだと理解しながらも、平和を求めて働くことはできる。私たちにはできます。それこそが人類の進歩の歴史なので。それこそが世界全ての希望なので。そして大きな課題に直面するこの時、それこそがこの地上における私たちの仕事なのです(We can understand that there will be war, and still strive for peace.  今月1日に米軍3万人増派を柱にしたアフガン新戦略をオバマ氏が発表するまで、私は「平和賞効果」に期待した。市民を巻き添えにする戦争のあり方を見直す「何か」を語るのではないか、と。米国内には戦争を続ける大統領の受賞に異論もある。授賞が世界最大の戦争国家の政治指導者に「再考」を促すのでは、との皮肉な憶測もあった。 Copyright © CyberAgent, Inc. All Rights Reserved. “日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。”(日本国憲法前文)とする日本の立場から「正しい戦争」について云々する見識は持ち合わせていませんが、平和と戦争の関係について国家の最高責任者として真摯に自問する姿勢は十分に感じられます。 *******************************, オバマ大統領のノーベル平和賞受賞演説 「正しい戦争(Just War)」 | 碧空. オバマ大統領本人の人気が欧州など外国で高く、アメリカ国内で低調なのとは逆の傾向です。 「自分たちの理想を守るために戦っているのに、その戦いにおいて自分たちの理想を曲げてしまっては、自分自身を失うことになります。理想を掲げるのが楽な時だけそうするのではなく、そうするのが辛い時に掲げてこそ、自分たちの理想を守ることになります」 バイデン氏 コロナ対策本部発足 「武力が必要な場合、私たちは一定の行動規範で自分たちを縛らなくてはなりません。それは道徳的な要請、かつ戦略的な要請です。何のルールにも従わない凶悪な敵と対決する時でさえ、アメリカ合衆国は、戦争遂行のふるまいにおいて世界の手本にならなくてはならないと考えます。それこそが自分たちと敵を分け隔てるものなのだと。それこそが私たちの力の源泉なのだと。」  先月、ヘラート州の現場を再訪した。破壊された16軒の民家は再建されずに放置され、住民たちは米軍への憎悪に加え、米国の支援を得てきたカルザイ政権への反感をたぎらせていた。空爆で4歳の娘を含む家族12人を一度に失った警察官は、屋根の抜けた自宅跡地で涙を流し、「世界は(オバマ氏の)ノーベル平和賞をどう見ているのか」と私に問いかけた。 また、理想を求める正しい戦争における規範・自制についても語っています。 【辛いときに掲げてこそ、理想は守れる】 ノルウェー・ノーベル賞委員会は、2009年の平和賞をバラク・オバマ米大統領に授与することを決定した。そして、ノーベル平和賞授賞式が12月10日、ノルウェー・オスロの市庁舎で行われた。 1 オバマ大統領ノーベル賞受賞演説から. ノルウェー・ノーベル賞委員会は、2009年の平和賞をバラク・オバマ米大統領に授与することを決定した。そして、ノーベル平和賞授賞式が12月10日、ノルウェー・オスロの市庁舎で行われた。 1 オバマ大統領ノーベル賞受賞演説から. 「非暴力の抵抗運動ではヒットラーの軍隊を食い止めることはできなかった。交渉では、アルカイダの指導者たちに武器を捨てるよう説得することはできません。時には武力も必要だと言うのは、決してシニシズムの呼びかけではありません。武力は必要だというのは、歴史を認識した上でそう言うのです。人間が不完全な存在であり、人間の理性には限界があると、認識した上でそう言うのです」 ただ、オバマ大統領の演説には、戦争を行う側の論理なり葛藤なりは窺えますが、戦争によって苦しむ人々の視点はあまり感じられません。 そして、マーティン・ルーサー・キング牧師やガンジーの非暴力主義を称えながらも、自らの行う戦争の必要性について語っています。 各国メディアの反応を見ると、ドイツのベルリナー・ツァイトゥング紙は、“オバマ大統領が核兵器のない世界など、平和を訴える内容に絞ることができたにもかかわらず、あえて戦争の必要性に踏みこんだ点を評価した。ただ、戦争を正当化した部分は「ブッシュ前大統領が話しているように聞こえた」”、イギリスのガーディアン紙は「オバマ大統領はオスロでノーベル平和賞を受け取りながら、アフガニスタンの紛争を拡大させ、悪を打ち負かすための『正しい戦争』を訴えるなど、矛盾した演説をした」と、辛口の批評をしています。  「正義の戦争」などありえないと思うし、「この戦争は成功しない」と確信したのを覚えている。 ウクライナ大統領 コロナ陽性 同年4月28日、日本共産党中央委員会幹部会委員長志位和夫は、オバマに書簡を送り、プラハ演説を歓迎する立場から(1)核兵器廃絶を正面からの主題とした国際交渉を開始すること、(2)2010年の核拡散防止条約再検討会議において核保有国が自国の核兵器の完全な廃絶を達成することを明確に約束すること、の2点を要請。オバマは、アメリカ合衆国国務次官補代理グリン・T・デイビス(英語版)に指示して、5月5日付で志位に感謝の返書を送った[3]。, 2010年4月8日、オバマとロシア連邦大統領ドミートリー・メドヴェージェフは、戦略核弾頭の配備数を1550に制限する新戦略兵器削減条約の調印式をプラハで執り行い、2011年2月5日に発効させた[1]。, オバマは、2016年5月27日、現職米国大統領として初めて被爆地広島市の広島平和記念公園を訪問し演説した[4]。, 座標: 北緯50度05分23秒 東経14度23分51秒 / 北緯50.0897222度 東経14.3975度 / 50.0897222; 14.3975, 志位書簡に米政府から返書 核廃絶への「情熱うれしく思う」 志位氏「非核への世論と運動に力尽くす」, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=プラハ演説&oldid=76245304. 【アメリカ国内では好意的反響】 この受賞演説については多くの論評のあるところですが、“オバマ氏が語る「正しい戦争と正しい平和」 大量破壊兵器を作った男の平和賞を受賞して(gooニュース 加藤祐子)” まず、私は全国家が――強きも弱きも同様に――武力行使を規定する基準を遵守せねばならないと信ずる。私は――他国の元首と同様に――、もし自国を防衛するために必要とあらば単独行動も辞さない[20]。しかしながら私は、基準を、国際的基準を遵守する国家は強くなり、遵守しない国家は孤立し衰弱すると確信している。, 9.11以後、世界は米国の下に結集した。そして、かかる無分別な攻撃に対する憎悪や広く認識された自衛原則の故に、アフガニスタンにおける我々の取り組みを支援し続けている。同様に、サッダーム・フセインがクウェートに侵攻した際、世界は彼と対峙する必要性を認識した――それは、侵略の代償に関する明確な伝言を万人に送る、(世界の)総意であった。, その上、米国は――実際には、如何なる国も――、己が規範に従うことを拒むならば、他国に対して規範に従うよう要求できない。何故ならば、規範を守らなければ我々の行動は独断的と映り、如何に正当化しようとも将来の介入の正当性を損なうからである。, このことは、軍事行動の目的が自衛または被侵略国の防衛(という範疇)を超えて拡大する際に、特に重要となる。自国政府による文民の殺戮を如何にして防止するか、地域全体を暴力と苦痛で覆う内戦を如何にして止めるかといった難問の増加という事態に、我々全員が直面している。, 私は信ずる。バルカンや、戦争で傷付いた他の地においてそうであったように、人道的見地に基づく武力行使は正当化され得ると。怠慢は我々の良心を引き裂き、後々より費用の掛かる介入に繋がりかねない。だからこそ、全ての責任ある諸国は、明確な任務を与えられた軍隊が平和を維持するために果たすことができる役割を受け入れねばならない。, 全世界の安全に対する米国の関与は揺るぎない。だが、脅威が更に拡散し、任務が更に複雑化した世界にあっては、米国は単独では行動できない。それはアフガニスタンにおいても真実である。テロリズムと海賊行為ばかりか飢餓や人民の苦難まで加わった、ソマリアのような破綻国家においても真実である。悲しいことであるが、不安定な地域においては今後も真実であり続けるであろう。, NATO加盟国の指導者らと兵士ら、そしてその他の友好国と同盟国は、アフガニスタンで見せた能力と勇気を通じて、この真実を実証した。だが多くの諸国で、従軍する人々の努力と、一般市民の相反する感情との間に断絶がある。何故戦争が好まれないのかは承知している。だが私は、平和が望ましいとの信条だけで平和を達成できることは稀だということをも知っている。平和は責任を要求する。平和は犠牲を伴う。だからこそ、NATOは今後も不可欠なのである。だからこそ、我々は国連と地域的平和維持とを強化せねばならないし、その任務を一握りの国に任せきりにしてはならないのである。だからこそ我々は、オスロやローマへ、オタワやシドニーへ、ダッカやキガリへと、国外での平和維持や訓練から帰還した者を讃えるのである――戦争を起こす者としてではなく、平和を請け負う者として讃えるのである。, 武力行使について、最後に1点言っておきたい。開戦という困難な決断を下す時ですら、我々は如何に戦うかについて明確な考えを持たねばならない。ノーベル委員会はこの真実を認識していたが故に、アンリ・デュナン[21]――赤十字の創設者でジュネーヴ条約 (の制定)の原動力――に最初の平和賞を授与したのである。, 武力が必要な地では、我々は一定の行動規範に従うことに倫理的・戦略的利益を見出す。規範を遵守しない悪意ある敵と対峙する時ですら、アメリカ合衆国は戦争遂行における(規範遵守の)旗手であり続けねばならないと信ずる。これこそ、我々と敵対者との違いである。これこそ、我々の力の源である。だからこそ私は、拷問を禁じた。だからこそ私は、グアンタナモ湾の収容所の閉鎖を命じた。そして、だからこそ私は、ジュネーヴ諸条約を遵守するという米国の約束を再確認したのである。そうした理想そのものについて妥協すれば、我々は己を見失うことになるのであり、我々は理想を守るために戦うのである。そして、容易な時ではなく困難な時にこそ、我々はそれらを支持することによって、理想を讃えるのである[22]。, 我々が戦争の遂行を選択する際に心に重くのしかかる問題について、私は詳述してきた。だが、斯様な悲劇的選択を避けるための我々の努力へと話題を変えて、正当かつ恒久的な平和を築く3つの方法について話すとしよう。, 第1に、規範や法を破る諸国に対処するに際しては、態度を改めさせるに充分なほど強力な、暴力以外の選択肢を生み出さねばならないと私は信ずる――何故ならば、もしも恒久平和を欲するのならば、国際社会の言葉は、何らかの意味を持たねばならないからである。規範を破る政治体制は責めを負わねばならない。制裁は、実質的な代償を強いるものでなければならない。強硬姿勢には更なる圧力で応じねばならない――そして斯様な圧力は、世界が1つに結束した時にのみ存在するのである。, 1つの緊急の例は、核兵器の拡散を防止し、これらのない世界を求める取り組みである。前世紀中葉、各国はある条約に従うことに同意した。その内容は明確である。即ち、全ての国は原子力を平和利用でき、核兵器を持たざる国は取得を断念し、核兵器を持つ国は軍縮へと向かうというものである。私はこの条約を熱心に支持している。それは私の外交政策の中核である。そして私は、米国及びロシアの核弾頭数を削減すべく、メドヴェージェフ大統領と協力しているのである。, だが、イランや北朝鮮のような諸国がこの体制を悪用せぬよう求めることも、我々全ての義務である。国際法を尊重すると主張する国家は、これら諸法が蔑ろにされた際には目を背ける訳にはゆかない。自国の安全を気に掛ける国家は、中東や東アジアにおける軍拡競争の危険性を無視する訳にはゆかない。平和を求める国家は、核戦争に備えて諸国が武装するのを傍観する訳にはゆかない。, 同様の原則は、国際法に反して自国民を虐待する者にも当てはまる。ダルフールでの殺戮、コンゴでの組織的強姦、ビルマ[23]での抑圧――これらには、報いがなければならない。無論、関与も為されるであろうし、外交努力も為されるであろう――だが、それらが失敗した際には報いがなければならない。そして我々が結束を強めれば、軍事介入をするか、それとも(ただ傍観して)弾圧の共犯となるかという選択に直面する可能性は減るであろう。, このことは第2の点――我々が求める平和の本質――へと結び付く。何故ならば、平和とは単に目に見える紛争が存在しないということではないからである。あらゆる個人が生来有する権利と尊厳とに基づく正当な平和のみが、真に持続し得るのである。, 第二次世界大戦後に世界人権宣言の起草者らを後押ししたのは、この洞察であった。荒廃の中、彼らは悟った。人権が保護されねば、平和など空約束に過ぎないのだと。, しかし、これらの言葉は余りにも頻繁に無視されている。「人権は西洋的原理であり、地域の文化や国家の発展段階にとって異質である」などという誤った考えを口実にして、人権を擁護しない国もある。そして米国内では、現実主義者と自称する者と、理想主義者と自称する者との間での緊張――狭き国益の追求か、我々の価値観を世界中で強制する終わりなき運動か、という不毛な選択を示唆する緊張――が長く続いてきた。, 私はこうした選択を拒絶する。自由に話したり、市民が思い思いに礼拝したり、指導者を選んだり、恐怖を抱くことなく集会を開いたりする権利が否定されている地では、平和は安定しないと信ずる。鬱積した不満は燻り、部族的・宗教的アイデンティティの抑圧は暴力に繋がりかねない。我々は、逆もまた真実であることを知っている。欧州は自由になって初めて平和を見出した。米国は民主主義に対する戦争を決してしたことがないし、我々の親友は市民の権利を守る政府である。如何に冷淡な捉え方をしようとも、人類の熱望の否定は米国の利益には――そして世界の利益にも――ならないのである。, 故に米国は、種々の諸国の独自の文化と伝統を尊重しつつも、常にそうした普遍的な熱望のために声をあげる。我々は、アウンサンスーチー[24]のような改革者の、静かなる威厳の証人となる。暴力に晒されつつも票を投じるジンバブエ国民の勇気の証人となる。イランの街頭を静かに行進した数十万人民の証人となる。このことは教えてくれる。これら政府の指導者は、他の如何なる国家の力よりも自国民の熱望を恐れるのだと。そして、我々がこれらの運動――希望と歴史の運動――の味方であることを明らかにするのは、全ての自由国民と自由諸国の責任なのである。, 更に言いたい。人権の促進は、熱心に説くだけでは得られない。時には、困難な外交を伴わねばならない。抑圧的な政治体制に関与すれば、純粋な怒りを保てなくなることは承知している[25]。だが、救済なき制裁――議論なき非難――は、厳しい現状を引き摺るだけになりかねないということも承知している。如何なる抑圧的な政治体制も、開かれた扉という選択肢がなければ、新たな道を進むことはできない。, 文化大革命の恐怖を思えば、ニクソンが毛沢東と面会したことは許し難いことのように見える――しかしこのことが中国をして、何百万もの人民を貧困から解放せしめ、開かれた社会との繋がりを持たしめる上で、助けになったのは確かである。教皇ヨハネ・パウロ2世のポーランドへの関与は、カトリック教会に対してのみならず、レフ・ヴァウェンサのような労働指導者に対しても(活動の)場を作った。ロナルド・レーガンの軍縮やペレストロイカ歓迎に対する取り組みは、ソ連との関係を改善したのみならず、全東欧の反体制派に力を与えた。そこには単純な公式などない。だが我々は、孤立と関与、圧力と報奨を均衡させるよう最善を尽くさねばならない。そうすれば、やがては人権と尊厳は進展するのである。, 第3に、正当な平和は、公民権や政治的権利のみならず、経済的な安全と機会をも含まねばならない。何故ならば、真の平和は単なる恐怖からの自由であるのみならず、窮乏からの自由でもあるからである。, 安全なくして発展が根付くことは稀である。これは疑う余地のない真実である。また、生存するために必要な、充分な食料や清浄な水、医薬品や住居が得られないところに安全が存在しないのも真実である。適正な教育や家族を養える仕事を児童が望めないところにも安全は存在しない。希望の欠如は、社会を内部から腐らせかねない。, だから、国民に食糧を供給する農家――あるいは、児童を教育し、病人を療す諸国――を支援することは、単なる慈善事業ではない。また、だからこそ世界は共に気候変動に対峙せねばならないのである。もしも我々が何もしないのならば、一層の旱魃や飢饉や大移動(=難民の大量発生)――今後何十年にも亙る一層の紛争の火種となるような――に直面することになろう。そのことには、科学的論争はほとんどない。故に、迅速かつ強力な行動を訴えているのは、科学者や環境運動家だけではない――我が国や他国の軍の指導者も、共通の安全が危殆に瀕していることを理解している。, 国家間の合意。強い制度。人権の擁護。開発への投資。これらは全て、ケネディ大統領の言う進化をもたらす上での、重要な要素である。しかし、我々がこの仕事を完遂するための意志や決断力や持久力を持つには、まだ足りないものがあると思う――それは、我々の倫理的想像力の持続的拡大であり、また、減ずることのできない何かを我々全員が共有しているとの強い主張である。, 世界が縮小するにつれて、諸君は思うかもしれない。我々が如何に似通っているのかということや、我々は皆基本的に同じものを求めているということ、己と家族にとってのある程度の幸福感と満足感をもって生きる機会を皆が望んでいることを、人類は認識しやすくなるだろうと。, だが、目まぐるしい速さでのグローバル化や、現代という文化的平準化が進んでいることを思えば、人々が、己の奉ずる特有のアイデンティティ――己の人種、部族、そして特に宗教――の喪失を恐れることは、驚くに当たらない。中には、こうした恐怖が紛争に繋がった地もある。時には、我々は(時代に)逆行しているのではと感じることすらある。それは、中東においては、アラブ人とユダヤ人との間の、激化する紛争として見られる。部族の境界によって分断されている諸国においても見られる。, そして最も危険なことに、イスラームという偉大な宗教を歪曲し、冒瀆してきた者たち、そしてアフガニスタンから我が国を攻撃した者たちによる、無辜の民の殺害を正当化するために、宗教が使われるという手口にもそれが見られる。こうした過激派らは、神の名の下に殺人を犯した最初の人間ではない。十字軍の蛮行の数々は詳細に記録されている。だがそれら[26]は、如何なる聖戦も正当な戦争たり得ないということを思い出させてくれる。何故ならば、もしも神意を実行していると本当に信じているならば、自制の必要――妊婦や医療従事者や赤十字社の職員、更には己と同じ信仰を持つ者を容赦する必要――などないからである。斯様な歪んだ宗教観は、単に平和という概念と矛盾するのみならず、信仰の目的そのものとも矛盾すると私は信ずる。何故ならば、あらゆる主要宗教の中核にある法則はただ1つ、他人からして欲しいことを他人に対してもせよということだからである。, この愛の法則に従おうとすることは、常に人間の本質に関わる苦闘の中核であり続けた。何故ならば、我々は過ちを犯しやすいからである。我々は失敗もするし、自尊心や権力の、そして時には悪の誘惑に屈する。如何に善意に満ちた人々であっても、眼前の不正を正せないことはある。, だが、人間の本質が完全無欠であると考えずとも、人間の置かれた状況を完全無欠なものにし得ると信ずることはできる。理想化された世界に住まずとも、世界をより良き地にするとの理想に近づくことはできる。ガンディーやキング牧師のような人々によって為された非暴力は、如何なる境遇にあっても現実的で可能なことという訳にはゆかなかったかもしれない。だが、彼らが説いた愛――人間の進化に対する彼らの根本的信念――これこそ常に、旅する我々を導く北極星たるべきなのである。, 何故ならば、もしも我々がこの信念を失えば――もしも我々がそれを愚かで浅はかなものとして退け、戦争と平和の問題について下す決断から切り離すならば――、その時我々は、人間性に関する最良の部分を失い、可能性の意識を失い、倫理的指針を失うからである。, 幾世代もの先人と同様に、我々は斯様な未来を拒絶せねばならない。随分前、キング牧師はこの機会に(=ノーベル平和賞授賞式で)次のように語った。「私は歴史の曖昧さに対する最終的回答として絶望を受け入れることを拒絶する。人間の現在の状態である『今ある姿』は、人間の前に永久に立ちはだかる永遠の『あるべき姿』に至ることを倫理的に不可能にしているとの考えを受け入れることを拒絶する」。, あるべき世界へと――今なお我々各自の魂を揺さぶる、あの神の輝きへと――至ろうではないか。, 現実の世界では、今日もどこかで、劣勢にあっても断固として平和を守る兵士がいる。この世界では、今日もどこかで、政府の残忍さに対して勇気を持って抗議の行進をする、若き女性がいる。今日もどこかで、貧困に喘ぎつつも我が子に教える時間を作り、僅かな小銭を掻き集めてその子を学校に行かせる母親がいる――残酷な世界にも、その子が夢見る余地はあると信じているが故に。, 彼らを範として生きようではないか。抑圧は常に存在するのだと認めつつも、正義を追求することはできる。手に負えない腐敗を認識しつつも、尊厳を追求することはできる。曇りなき目で見れば、今後も戦争は起こるであろうことは理解できるが、それでも平和を追求することはできる。 我々にはそれが可能である――何故ならば、それこそが人間の進歩の物語だからである。それこそが全世界の希望である。それこそが、この試練の時に我々が地上で為すべき仕事なのである。, この文書は、アメリカ合衆国においては、同国の著作権法に基づき、同国の連邦政府と雇用関係にある公務員がその職務上作成したアメリカ合衆国政府の著作物(17 U. S. C. §105(参考和訳))に該当するため、パブリックドメインの状態にあります。また、日本国においては、同国の著作権法13条に規定するもの(憲法その他の法令、通達、判決など)に該当するアメリカ合衆国政府の著作物のみに限り、パブリックドメインの状態にあると解されます。それ以外の国では、当該国の著作権法に基づいて、著作権の対象であるか否かが判断されます。, 原文の著作権・ライセンスは別添タグの通りですが、訳文はクリエイティブ・コモンズ 表示-継承ライセンスのもとで利用できます。追加の条件が適用される場合があります。詳細については利用規約を参照してください。, 原文は「And yet I would be remiss if I did not acknowledge the considerable controversy that your generous decision has generated」。逐語訳をするならば、「しかし、諸君の寛大な決定が惹起したかなりの論争をもしも私が認識しないのならば、私は怠慢ということになるであろう」。, 原文は「as codes of law sought to control violence within groups」。逐語訳をするならば、「法体系が集団内での暴力を制御しようとするのと同様に」。, 原文は「while it's hard to conceive of a cause more just than the defeat of the Third Reich and the Axis powers」。逐語訳をするならば、「第三帝国と枢軸国の打倒よりも正当な大義は考え難いとはいえ」。, この部分は、原文では前段落の末尾に記述されていたが、邦訳文に置き換えた場合は据わりが悪いと考え、訳者の独断で次段落に移動した。, 原文は「reserve the right to act unilaterally」。逐語訳をするならば、「一方的に行動する権利を留保する」。, 原文は「I know that engagement with repressive regimes lacks the satisfying purity of indignation」。逐語訳をするならば、「私は、抑圧的な体制への関与が憤怒の確かな純粋性を欠くことを承知している」。, 原文は「they」。共同通信社は「こうした者たち」と、朝日新聞社は「これら」と訳している。「they」を人と捉えるか、人の為した行いと捉えるかによって、訳に違いが生じている。, Remarks by the President at the Acceptance of the Nobel Peace Prize, https://ja.wikisource.org/w/index.php?title=バラク・オバマのノーベル賞受賞演説&oldid=119580.  しかし、戦禍に苦しむアフガン人への配慮もメッセージもなく、8年で市民数万人が命を失った現実に何の感想もなかった。ブッシュ前大統領と同様に、アフガン戦争の原点となった01年のニューヨークでの米同時多発テロの犠牲者数などに触れ、軍事作戦継続の必要性を訴えた。 I refuse to accept the idea that the 'isness' of man's present nature makes him morally incapable of reaching up for the eternal 'oughtness' that forever confronts him.  ノーベル賞委員会は、オバマ氏が米国を単独行動主義から国連中心の多国間外交の舞台に引き戻し、「よりよい未来に向けて人々に希望を与えた」と授賞理由を挙げた。しかし、戦禍に苦しむアフガンやパキスタンの人々に希望は見えない。今回の平和賞が、「オバマの戦争」を事実上是認する一方で、アフガンやパキスタンの人々の命を軽視する風潮に拍車をかけないかと、私は恐れている。(ニューデリー支局)【12月10日 毎日】 (以上、上記【gooニュース 加藤祐子】より) ニューヨーク・タイムズ紙の社説は、「何が正当な戦争で何がそうでないかという議論は哲学者に任せるとして、アフガニスタン戦争が非常に困難ながら必要なものだという点には同意する」と指摘。ワシントン・ポスト紙は「われわれがこうであれば良いと望む世界と現実の世界の線引きを明確にした」と評価した。【12月12日 時事】 バラク・オバマのノーベル賞受賞演説 作者:バラク・オバマ訳:利用者:Lombroso2009年, 国王[1]王妃[2]両陛下、王太子[3]王太子妃[4]両殿下、ノルウェーのノーベル委員会委員諸君、米国民諸君、そして世界の市民諸君よ。, 私はこの栄誉を、深い感謝と大いなる謙虚さをもってお受けする。これは、我々の高い志――どんな蛮行や苦難が我々の世界にあろうとも、我々は単なる運命の虜囚ではないという志――を示す賞である。我々の行動には意味があり、歴史を正義の方向へと向けることができるのである。, しかし私は、諸君の寛大な決定が少なからぬ論争を惹起したことを認めざるを得ない[5]。1つには、世界という舞台における私の仕事が始まったばかりで、終わっていないという理由がある。この賞を受けた歴史上の巨人ら――シュヴァイツァー[6]やキング[7]、マーシャル[8]やマンデラ[9]――と比べると、私の業績など微々たるものである。そして世界には、正義を求めて投獄され暴行される人々、(人民の)苦痛を緩和すべく人道組織で奮闘する人々、勇気と慈愛に満ちた静かな行動によって最も頑固な皮肉屋さえも動かす何百万もの無名の人々がいる。私は、これらの男女――名の知られた者もいるし、助けた相手以外には知られていない者もいるが――の方が私よりも遥かにこの名誉に相応しい、と考える人々に反論できない。, だが恐らくは、私の受賞を巡る最も深い問題は、私が2つの戦争の只中にある国家の軍最高司令官だという事実である。これらの戦争のうち、1つ[10]は終結しつつある。もう1つ[11]は米国が求めなかった紛争であり、我が国や全国家を更なる攻撃から防衛すべく、他の42ヶ国――ノルウェーを含む――が参加している。, 我々は今なお戦時下にあり、私は何千もの若き米国民を遠地での戦闘に派遣している責任を負っている。殺す者もいれば、殺される者もいよう。故に私は、武力紛争の代償に対する切なる思いを抱き――戦争と平和との関係や、戦争を平和に置き換える努力に関する難題を抱えて――ここに来たのである。, さて、これらの問いは新しいものではない。戦争は、如何なる形にせよ、最初の人類と共に現れた。歴史の黎明期には、その道義性は問われなかった。それは旱魃や疾病と同様、単なる事実に過ぎなかった――諸部族が、後には諸文明が権力を追求し相違を解決するための方法であった。, やがて、法体系による集団内での暴力の制御が図られ[12]、哲学者や聖職者、政治家らは戦争の破壊力を規制しようとした。「正当な戦争」なる概念が生まれ、「最終手段として、または自衛のために遂行されるか」、「行使される武力は適正であるか」、「可能な限り文民が暴力から回避されているか」といった一定の条件が満たされた時にのみ、戦争は正当化できるとされた。, 無論、歴史の大部分において、この「正当な戦争」という概念がほとんど守られなかったことはご承知の通りである。互いに殺し合う新たな方法を考え出す人類の能力は、外見の異なる人々や異なる神を信ずる人々に情けをかけない能力と同様、尽きることがなかった。軍隊間の戦争は、国家間の戦争――戦闘員と文民との区別が不明瞭になる総力戦――に取って代わられた。30年の間に、斯様な殺戮[13]が2度もこの大陸を飲み込んだ。そして、第三帝国と枢軸国の打倒という至上の大義があったとはいえ[14]、第二次世界大戦は、死亡した文民の総数が戦死した兵士の数を上回った戦争だったのである。, 斯様な破壊を契機に、そして核の時代の到来によって、勝者にとっても敗者にとっても、これ以上の世界大戦を防止する制度が必要であることが明らかになった。そして、国際連盟――ウッドロウ・ウィルソン[15]はこの構想によってこの賞(=ノーベル平和賞)を受賞した訳だが――を合衆国上院が拒否してから四半世紀後、米国は平和維持の構造を構築するに際して世界を主導した。平和維持の構造とは即ち、マーシャル・プランや国際連合であり、戦争遂行を抑制する機構であり、人権を擁護し、大量虐殺を防止し、最も危険な兵器を制限するための諸条約などである。, 多くの点で、これらの努力は成功した。確かに恐るべき戦争はあったし、蛮行も行われた。だが、第三次世界大戦は発生していない。歓喜に沸く群衆によって壁が破壊されたことにより、冷戦は終結した。商業は世界の大半を繋ぎ合わせた。数十億の人民が貧困から脱した。自由、民族自決、平等、そして法の支配といった理想は、もたつきながらも前進した。我々は、先人らの精神力と先見性との継承者であり、これは我が国が真に誇れる遺産である。, しかし、新世紀に入って10年が経過し、この古き構造は新たな脅威の重みで崩れつつある。世界が2つの核超大国[16]間の戦争の可能性に震えることはもはやないかもしれないが、(核の)拡散は破滅の危険性を増大させ得る。テロリズムは長きに亙り戦術であり続けたが、現代技術は、憤激した少数者が恐るべき規模で無辜の民を殺害することを可能にした。  米国の事実上の主敵となったタリバンは、米軍撤退後の「再支配」をにらみ、アフガン34州すべてに影の州知事を置いて政治勢力としての地歩を固めている。政権時代に非難を浴びた極端なイスラム法の強制を見直し、女子教育の是認を議論するなど、妥協できるところは妥協している。タリバン幹部は「タリバンは8年で多くのことを学んだ」と言った。だが、米国は指導者が代わっても、同じ過ちを繰り返そうとしているように見える。 It solves no social problem: it merely creates new and more complicated ones)と言いました。私は、キング牧師の功績のおかげで、ここに立っている人間です。私は、非暴力抵抗運動のもつ道義的な力の、生き証人です。ガンジーやキングが掲げた信条と、あの2人の人生には、弱いところなど全くないし、受け身なところも、能天気なところも何ひとつない。私はそれを承知しています」 「しかし自分の国を守り防衛すると誓った国家元首として、私はガンジーやキングの先例にばかり倣っているわけにはいきません。私は、ありのままの世界に直面している。そしてアメリカ人を脅かす危険を前にして手をこまねいているわけにもいかないのです。なぜなら、この世に悪は存在するからです。この点を、決して誤ってはなりません」 「非暴力の抵抗運動ではヒットラーの軍隊を食い止めることはできなかった。交渉では、アルカイダの指導者たちに武器を捨てるよう説得することはできません。時には武力も必要だと言うのは、決してシニシズムの呼びかけではありません。武力は必要だというのは、歴史を認識した上でそう言うのです。人間が不完全な存在であり、人間の理性には限界があると、認識した上でそう言うのです」 「第2次世界大戦後の世界に安定をもたらしたのは、国際機関だけではなく、条約や宣言だけではありません。世界はそれを忘れてはならない。我々はいくつか間違いを犯したかもしれない。しかしアメリカ合衆国が60年以上にわたり、自国民の血と武力でもって、世界の安全を裏書きしてきたことは、これは厳然とした事実なのです」 「我々がこの負担を担ってきたのは、自分たちの意志をゴリ押ししようとするからではない。私たちは、英明なる自己利益のためにそうしていたのです。なぜなら私たちは、自分の子どもや孫たちによりよい将来を願っているから。そしてそのためには、ほかの国々の子どもや孫たちが自由で豊かな生活を送れるようになった方が良いだろうと考えるからです」 「なので確かに、戦争のための道具には、平和を守るための役割があります。しかしその真実の横には、いかに正当な戦争であっても、戦争は人間に悲劇をもたらすのだという真実も、常に並存しているのです。兵士の果敢な犠牲は、国への献身、大儀への献身、戦友たちへの献身に溢れ、栄光に充ち満ちています。しかし戦争そのものに決して栄光などなく、決して戦争をそのように持ち上げてはなりません」 ○実現可能な正しい平和のためには 「なので私たちに与えられた課題は、この二つの相容れなさそうな真実を、何とか相容れさせ調和させることです。つまり戦争は時には必要であり、戦争はある意味で人間感情の表現なのだと(So part of our challenge is reconciling these two seemingly irreconcilable truths – that war is sometimes necessary, and war is at some level an expression of human feelings)。具体的には、私たちはかつて遠い昔にケネディ大統領が呼びかけた作業に向けて努力しなくてはなりません。ケネディ大統領は『より現実的で、より実現可能な平和に意識を向けましょう。人間の本性が何かいきなり革命的な変化を遂げるなど期待するのではなく、人間集団の在り方が徐々に進化していくよう努力するのです』と言いました」 「私は、人道的な見地から武力行使が正当化されることもあると考えます。たとえばバルカン半島でそうだったように。あるいはほかにも、戦争で傷ついた場所でそうだったように。何もしないでいることは私たちの良心を引き裂き、遅すぎる介入はより大きな犠牲につながることもあります。だからこそ、国民の明確な信託を受けた軍隊は平和維持に貢献できるのだと、全ての責任ある国家はその役割を受け入れなくてはなりません」 「武力が必要な場合、私たちは一定の行動規範で自分たちを縛らなくてはなりません。それは道徳的な要請、かつ戦略的な要請です。何のルールにも従わない凶悪な敵と対決する時でさえ、アメリカ合衆国は、戦争遂行のふるまいにおいて世界の手本にならなくてはならないと考えます。それこそが自分たちと敵を分け隔てるものなのだと。それこそが私たちの力の源泉なのだと。だからこそ私は、グアンタナモ収容所の閉鎖を命令しました。だからこそ私は、アメリカはジュネーブ諸条約を遵守すると改めて確認したのです」 「自分たちの理想を守るために戦っているのに、その戦いにおいて自分たちの理想を曲げてしまっては、自分自身を失うことになります(We lose ourselves when we compromise the very ideals that we fight to defend)。理想を掲げるのが楽な時だけそうするのではなく、そうするのが辛い時に掲げてこそ、自分たちの理想を守ることになります」 ——ではどうしたらいいのか。オバマ氏は3つのポイントを提言しました。 1.核拡散や大量虐殺など、法律やルールを守らない国々と相対する時は、武力以外で行動を変えさせることのできる、強制力のある方法が必要。それには具体的に相手国に負担を強いる制裁措置の発動が必要で、そのためには国際社会が一致団結しなくてはならない。 2.どういう平和を求めるのか。平和とは単に、目に見える紛争がない状態ではない。アメリカでは昔から、現実主義と理想主義の対立があり、自分たちの狭い利益を追求するか、それとも自分たちの価値観をひたすら押しつけるしかないと言われていた。しかし私はこの選択肢を拒否する。市民が自由に発言できない、自由に信仰できない、指導者を自由に選び自由に集会できない状態は、不満を抑圧しているだけのきわめて不安定な平和でしかない。アメリカはかつて一度も、民主国家と戦争したことはない。人間の希望を否定することは、決してアメリカの、そして世界の利益にならない。 3.正しい平和とは、市民的および政治的権利のみが保障されている状態ではなく、経済的安全と経済機会の確保も必要だ。真の平和とは、恐怖から自由であることのみならず、不足から自由であることも意味する。国家間の合意、強い国際機関、人権の後押し、開発への投資——。ケネディ大統領の言う進化を遂げるには、どれも不可欠な材料だ。しかしそれだけでは足りない。自分たちの道徳的な想像力を絶え間なく拡大し続けなければ、平和実現の事業はなしえない。 ○旅路を導く北極星 そして演説の最後にこういう希望の言葉がありました。 「この世界をより良い場所にするという理想を実現するのは、別に理想的な世界に住んでいなくてもできることです。ガンジーやキングといった人々が実践した非暴力主義は、あらゆる全ての状況で実効性があったわけではないけれども、彼らが唱えた愛と、そして人類は絶え間なく進歩するものだという彼らの信念は、常に私たちの旅路を導く北極星でなくてはなりません(the love that they preached – their faith in human progress – must always be the North Star that guides us on our journey)」 「キング牧師は何年も前にやはりこの場でこう言いました。『曖昧なる歴史への最終回答が絶望だなど、そんなことを私は受け入れない。人類が『今こう』だから、人類の前に常にある永遠の『かくあるべし』という道徳の高みに手を伸ばすことすらできないなど、そんな考えは私は受け入れない』と("I refuse to accept despair as the final response to the ambiguities of history. new!  アフガンを管轄に持つニューデリー支局に赴任したのは07年。昨年10月に市民90人以上が死亡した西部ヘラート州の空爆現場を訪ね、同じような被害が続く現実におののいた。家族を失って孤児となり、家族の肉片を拾い集めていた少年は、11歳とは思えない厳しい視線を投げかけた。 いつもはゆるい「暇ダネ」の英語をご紹介する金曜コラムですが、日本時間の木曜夜(10日夜)にオバマ米大統領のノーベル平和賞演説を観ていて、感動…というか、色々な意味で心揺さぶられたので、今週はちょっと真面目な話をします。「オバマが平和賞に値する何をした」という批判はつくづく最もだと思う一方で、「正しい現実主義」あるいは「正義を胸に抱いたプラグマティズム」のお手本のような演説を聞きながら、アフガニスタン3万人増派を決断したばかりのこの国家指導者こそ、ダイナマイトの発明者が創設した「ノーベル賞」にふさわしいのではないかと、その何ともいえないアイロニーに感服したからです。(gooニュース 加藤祐子), ○オバマ氏らしいきっぱりした曖昧さ こんなに物議をかもしたノーベル平和賞は珍しいというくらいの平和賞を受賞し、オバマ氏は、受賞演説で「Just War(正当な戦争、正義の戦争)」という言葉を繰り返しました。大統領選中にはおそらく(ブッシュ政権を批判するためもあって)決して口にしなかっただろう「正当な戦争」の概念を、あの(ヒラリー・クリントンやジョン・マケインいわく)「世間知らずな理想主義者」が口にしたという、その驚きたるや。「理想主義か現実主義か単純に二分しようとする考えを私は拒絶する」と、きっぱりと述べたオバマ氏。いかにも、「赤い州だけでもなければ青い州だけでもない」つまり保守だけでもリベラルだけでもない、そして黒人であると同時に白人でもあるオバマ氏らしい、全てを包含した「理想主義でもあり現実主義でもある」というある意味で曖昧な在り方を、なんともきっぱり堂々と宣言したものです。 そしてもう一つ、オバマ氏はもう大統領候補ではなく、すでに1年近く大統領であり続けた人なのだという、その変化が如実に出ていた演説でもありました。「head of state (国家元首)」として、イラクとアフガニスタンで2つの戦争を同時に戦う国の「commander in chief (最高司令官)」として、1年近くを過ごしてきたからには、もはやただ理想主義であることは許されず、こうして「正しい戦争」を語るようになったのかという。何の具体的な責任もなかった時はいくらでも理想論を口にできるけれども、いざ国を守る全軍の最高司令官となったなら、どんな理想主義者でもこれくらいには現実主義者になるのかと、その変遷をまざまざと見る思いというか。 ○「正当な戦争はあるのか」という巨大テーマ 理想主義者だと思っていたオバマ氏が「Just War」という熟語を口にした。それに驚いた私はいきなり私事ですが、「Just Warと言うものはあり得るのか」というテーマを学生時代ずっと考えていました。「正義の戦争」とも訳される「Just War」というのは、歴史学や国際政治学における大テーマなのです。マイケル・ウォルツァーの「Just and Unjust Wars(正しい戦争と不正な戦争)」という古典的名著などがあります。 人類が何百年、何千年も議論してきたこの巨大テーマに、オバマ大統領がひとつの演説でカタをつけたわけもありません。けれども、ノーベル平和賞授賞式という舞台でなされたこの演説は、もしかしたら、おそらく、今後何年にもわたり学生や学者たちが「正当な戦争とは」と議論するにあたっての基本材料になるだろう、あるいはもっと巨視的に「戦争と平和」そのものを議論するにあたっての基本材料になるだろうと、そんなことを思いました。この演説を下敷きに、何十本もの論文が執筆されるだろうと。それくらいのインパクトがある、なんというか「food for thought(考える材料)」に満ち満ちていた演説でした。 そして冒頭で触れたように、この演説が「ノーベル」平和賞の授賞式でなされたものだったという見事さ。あるいはふさわしさ。つまり、ダイナマイトという(当時の)大量破壊兵器を発明してしまったアルフレッド・ノーベルが、自分のなしたことへの後悔ゆえに創設した賞を得るには、もしかしたら「世界の平和を確保するための戦争」を戦っている「最高司令官」こそがふさわしかったのではないかと。 つまり、オバマ氏も演説で指摘したように、非暴力の抵抗運動ではヒットラーは倒せなかっただろうし、平和的な交渉でアルカイダを国際社会に取り込めるはずもない。国を守ると誓った国家元首としては、非暴力や恒久平和を主張していればそれで済むという、ある意味で恵まれた立場にはないのだと。選挙戦中にはなかったそういう厳しさが、授賞式のオバマ氏にはありました。若者を戦地に送り込むという厳しい選択をしなくてはならない立場に立つことを、彼は自ら選んだ。その人が、ダイナマイトの発明者が悔恨の念から創設した平和賞を受賞し、そして平和獲得のための方策を語った。その「ふさわしさ」は、これまでの数多の批判や皮肉をうけとめて尚、なかなかにアイロニーに満ち満ちていて、かつ感動的だったと思います。 ○非暴力が通用しない時の「正しい戦争」 演説の全文は色々な媒体が訳すでしょうから、ここでは私が「おお…」と唸った部分だけ急ぎピックアップします。演説の英語全文はこちらで。 「私がこの賞を受けるにあたって何より大きな問題となっているのは、私がまさに、二つの戦争を戦う国の、最高司令官であることでしょう」 「我々は戦争を戦っている最中です。そして私は、何千人もの若いアメリカ人を遠い国の戦地に派遣する、その責任を負っています。私が戦地に送る若いアメリカ人の何人かは人を殺すでしょうし、何人かは殺されるでしょう」 「なので私は、武力紛争の代償について深く感じ入りながら、ここへ参りました。戦争と平和の関係、片方でもう片方を置き換えるにはどれほど努力しなくてはならないのか、そういう難問でいっぱいになりながら、私はここへやってきたのです」 「人類は長い時をかけて、人間集団内の暴力を法律で抑制しようとしました。同様に哲学者や宗教者、そして政治家たちは、戦争の破壊力をなんとか規制しようと努力してきました。その中から『正しい戦争』という概念が登場し、一定の前提条件を満たす場合に限って戦争は正当化されるという考え方が生まれました。いわく戦争とは、最終手段として、あるいは自衛行為としてのみ容認されると。かつ行使される力の規模が適正で、かつ可能な限り民間人は暴力にさらされないなら、と」 「けれども歴史の大半において、この正しい戦争と言う概念が守られたことは、めったにありません」 「軍隊同士の戦いは、国家間の戦争へと発展しました。つまり戦闘員と民間人の区別がもはや曖昧な、全面戦争の到来です。そしてこの(欧州)大陸は30年間で2度も、そうした悲惨な戦渦に覆われました。(ナチスの)第三帝国と枢軸勢力の打倒ほど正当な大義はめったにないでしょう。しかしその一方で、第二次世界大戦というのは民間人の死者数が兵士の死者数を上回った戦争でもありました」 「それほどの破壊を経て、核時代の到来と共に、世界は次の世界大戦を防がなくてはならないのだと、戦勝国も敗戦国もはっきりと認識したました」 「色々な意味で、こうした努力は功を奏しました。確かに悲惨な戦争は戦われたし、残虐行為もあった。しかし第三次世界戦争はなかったのです(中略) 自由と自決権と平等と法の支配という概念は、つまづきながらも前進してきました」 「しかし今や、国家間の戦争が減る一方で国家内の戦争はどんどん増えています。民族紛争、宗教紛争が再び増え始め、分離独立運動や反政府運動や破綻国家の増加によって、ますます多くの民間人が絶え間ない混乱の渦中に捕われています。今日の戦争では、兵士よりも多くの民間人が殺されています」 「私は今日、戦争という問題について決定的な解決策を携えて来た訳ではありません。ただ現在のこうした挑戦に立ち向かうには、何十年も前に果敢に戦った先人たちと同じような先見性と努力としぶとさが必要だと言うことは分かっています。そしてそのためには私たちは、正しい戦争の概念について、そして正しい平和の要請について、今までとは違う形で考えなくてはなりません(And it will require us to think in new ways about the notions of just war and the imperatives of a just peace)」 「 私たちはまず、自分たちが生きている間に暴力的な紛争をなくすことはできないのだという、辛い真実を受け入れなくてはなりません(We must begin by acknowledging the hard truth that we will not eradicate violent conflict in our lifetimes)。個別の国家による武力行使、あるいは国家集団による武力行使が必要だという事態、必要なだけでなく道徳的にも正当化できるという事態は、今後も必ず起きるはずです」 「何年も前にこの同じ式典で、マーティン・ルーサー・キング牧師が述べた言葉を念頭におきながら、私はこうしたことを言っているのです。キング牧師はかつてここで『暴力は決して恒久平和をもたらさない。暴力は何の社会問題も解決しない。暴力はただ単に、さらに複雑な別の問題を作り出すだけだ』(Violence never brings permanent peace.
2020 オバマ ノーベル平和賞 演説