旧ひばりヶ丘団地跡地のエリアマネジメントの目玉施設です。集会施設やカフェなどが入っています。ひばりヶ丘団地にあったスターハウス、テラスハウス、中層フラットいずれも1棟ずつ保存されていて、素晴らしすぎる! 当時建築されていた中ではかなり大規模な公団団地だったらしく、天皇陛下御夫妻(当時は皇太子殿下御夫妻)も訪問されたそうです^^ 欅並木や桜並木の整った当時では、最も近代的な公団団地でした♪ 同級生が住んでいた「星型」と呼ばれていた棟 天皇陛下: ご執務(宮殿) 天皇陛下: 内奏(内閣総理大臣)(宮殿) 皇后陛下: ご出席(小児がん征圧キャンペーン・チャリティーコンサート「生きる2008-小児がんなど病気と闘う子供たちとともに」(第2部より))(Bunkamuraオーチャードホール(渋谷区)) 旧ひばりヶ丘団地跡地のエリアマネジメントの目玉施設です。集会施設やカフェなどが入っています。ひばりヶ丘団地にあったスターハウス、テラスハウス、中層フラットいずれも1棟ずつ保存されていて、素晴らしすぎる! 昭和30年代に大団地の先駆けとして、全国的に憧れの的でもあったひばりが丘団地。建設当時は、現在の平成天皇が皇太子であった時に最先端の建物として視察に訪れたほどでした。それも、50年以上のときを経て今度は全国にある団地の再生事業のモデルとなるよう生まれ変わった事も、注 … 皇居は徳川幕府の居城・江戸城があったところで、JR東京駅の西側に位置する。明治元年(1868年)に皇居となった。翌年、明治天皇が入り、皇居は正式に京都から東京に移った。 総面積は115万平方メートルあり、周りを堀で囲まれている。二重橋が臨める正門をはじめ8つの門があり、その一つである北側の乾門から南東に延びる乾門通りを境に、東西の二つの地区に分かれている。 東側地区には旧江戸城の本丸などがあり、一 … 当時建築されていた中ではかなり大規模な公団団地だったらしく、天皇陛下御夫妻(当時は皇太子殿下御夫妻)も訪問されたそうです^^ 欅並木や桜並木の整った当時では、最も近代的な公団団地でした♪ 同級生が住んでいた「星型」と呼ばれていた棟 西武池袋線ひばりヶ丘駅を下車。ひばりが丘団地はそこから徒歩20分ほどのところにあった。 昭和34年日本住宅公団最大のマンモス団地の走りであり注目された。 昭和35年には皇太子・皇太子妃が視察された。(現在の天皇陛下と皇后) 新天皇即位 団地をどうやって使い、住むのが面白いのか? 今後どんな団地があったらいいか?僕たちは、僕たちにとって団地がこれからもリアルな住空間であるために「団地オモシロアイデア会議」なるイベントを団地のなかで行うことにした。, 団地R不動産のサイトから参加者を募り、当日は25人が集まった。 徳仁 ( なるひと 、 ( 1960年〈昭和35年〉2月23日 - )は、日本の第126代天皇(在位:2019年〈令和元年〉5月1日 - )。 称号は 浩宮 ( ひろのみや ) 、お印は 梓 ( あずさ ) 。 敬称は陛下 。 勲等は大勲位菊花章頸飾。. (木村真美子共著)「『九条家車図』の成立をめぐって : 附、学習院大学史料館所蔵飛鳥井本『九条家車図』解題および翻刻」、『学習院大学史料館紀要』第14号、学習院大学史料館、2007年, 括弧内は在位年、「△」は譲位、「▼」は廃位、「?」は当該年に異説があることを示す。, 第81代安徳天皇の在位の最後の2年間は、第82代後鳥羽天皇の在位の最初の2年間と重複する。, 現行の天皇歴代は、南朝の天皇を正統とする観点から数えられている。北朝の天皇はこの天皇歴代には数えないものの、同時期に在位した正当な天皇として. 今現在団地に住んでいるという人から(中には生まれてこのかた団地にしか住んだことのないという人もいた)、実家が団地でそこで生まれ育ったという人、これまで団地に住んだ ことはないが、他では得られない住環境の良さに興味を持って参加してみたという人、住みかというよりむしろホームオフィス的な利用に可能性を感じているという人まで。また20代になったばかりの建築学生から、40代後半の社会の中堅的な人までがいた。しかしまた、すぐに打ち解けそうな親しい空気がそこにはあった。, 今回の会場として選んだのは、西東京市にあるひばりヶ丘団地。昭和34年(1959年)、マンモス団地が日本で作られ始めた当初、その代表格とも言われた団地だ。 建てられた直後には、天皇陛下夫妻(当時は皇太子・皇太子妃)も視察に訪れたという。『団地への招待』という、当時日本住宅公団が団地ライフのプロモーション用につくったビデオで登場するのもここの団地である。昭和30年代にしかつくられることのなかった、「スターハウス」が保存されていたりと、昔の面影が今も残っている。また50年余の長い歳月によって樹木も大きく育ち、団地の敷地内はまるでジブリの映画にでも出てきそうな深い緑の光景だ。だがその一方では、広い敷地の半分では建て替えの工事が日々進められていて、新築の住棟が1つ完成すれば緑と一体化したかのようなそうした昔の住棟がまた一区画建て壊される、といったサイクルの中にあることも見過ごせない事実である。古い団地は壊されることを待つのみ、現在は人は住んでいない。, イベント当日はこれ以上ないという最高の五月晴れに恵まれ、まず僕たちは敷地内をツアーすることにした。UR都市機構の人に案内を頼み、空き状態になっている古い団地の建物をいくつか見学させてもらう。 皇居は徳川幕府の居城・江戸城があったところで、JR東京駅の西側に位置する。明治元年(1868年)に皇居となった。翌年、明治天皇が入り、皇居は正式に京都から東京に移った。, 総面積は115万平方メートルあり、周りを堀で囲まれている。二重橋が臨める正門をはじめ8つの門があり、その一つである北側の乾門から南東に延びる乾門通りを境に、東西の二つの地区に分かれている。, 東側地区には旧江戸城の本丸などがあり、一部を除いて皇居東御苑として公開されている。西側地区は、吹上御苑と旧西の丸からなる。ここには、天皇ご夫妻の住居である御所、各種行事を行う宮殿、宮内庁の庁舎、歴代皇后が伝統を守ってきた養蚕の作業場である紅葉山御養蚕所などがある。, 御所は私邸であるものの近年、公務でも使われることも多い。これは、平成の天皇ご夫妻が東日本大震災の後、電力消費が大きいとして宮殿の使用を控えられたことによるもので、年間約200件の行事のうち要人との面会など約60件を私邸である御所で行われた。, 皇居は都心にありながら、豊かな自然を残している。木の実や昆虫が豊富なことからタヌキも生息しており、平成の陛下は、そのタヌキの研究にも取り組まれたことがある。桜と紅葉の見ごろの時期に毎年行われる「皇居乾通り一般公開」も好評を博している。, 代替わりに伴って、皇居には新天皇がご家族で入られる。ただし、御所は改修工事などを行うため、ご一家は皇居への転居までの間、赤坂御用地内で暮らされる。陛下は、公務のため皇居に“通勤”される。, 赤坂御用地は、広さが皇居の約半分の51万平方メートルで、複数の皇族が暮らしている。まず西側に天皇ご一家が暮らす赤坂御所、東側に秋篠宮邸があり、それより南西に三笠宮邸や、高円宮邸といった他の宮家の住居がある。皇室の子弟が伝統的に学んできた学習院初等科も近接している。, 要人を迎えるなど外交に使われる迎賓館赤坂離宮も敷地内にある。また、春と秋の年2回催される園遊会の会場も、この赤坂御用地の一角だ。, 宮邸は赤坂御用地以外にも、東京都渋谷区東の常陸宮邸と、東京都港区高輪の高輪皇族邸の2カ所ある。常陸宮邸は現在も使われている。, 赤坂御用地でも代替わりに伴って変化がある。まず、新天皇ご一家が出られた赤坂御所に、上皇ご夫妻が入られる。ただし、バリアフリー化などを施す改築工事のため、ご夫妻は退位後、いったん高輪皇族邸に入居される。上皇の住居を意味する「仙洞(せんとう)御所」の仮住まいなので、仙洞仮御所と呼ばれる。赤坂御所は上皇ご夫妻が正式にお住まいになられる時、「仙洞御所」となる。, 皇嗣となられる秋篠宮さまは、引き続き秋篠宮邸で暮らす。ただ、支える職員が倍増するなど環境が大きく変わるため、秋篠宮邸も改築工事が行われる。, 皇室には、栃木、神奈川、静岡の3県に、静養のために使う御用邸が3カ所ある。いずれも別荘のようなもので、私的な時間を過ごす。, 栃木県那須町の那須御用邸は、標高2000メートル近い那須連山の山麓に広がる高原に位置している。1926年に建てられた本館と、35年に加えられた付属邸からなる。2011年には、平成の天皇ご夫妻の計らいで、東日本大震災の被災者に風呂などを提供したほか、敷地の約半分にあたる約5.6平方キロメートルの土地が宮内庁から環境庁に移管され、「那須平成の森」が開園した。, 神奈川県葉山町の葉山御用邸は、相模湾に隣接する。2009年に平成の陛下が海で孫の秋篠宮悠仁さまらを乗せた和船を漕がれたのは、この御用邸滞在時だった。大正天皇が1926年に崩御した場所でもある。建物は一度消失し、81年に再建された。静岡県下田市の須崎御用邸は、伊豆半島の東側にありプライベートビーチもある。, 京都市内にある京都御所は、皇居が東京に定められる前に歴代の天皇が居所としていた場所だ。現在の建物は、おおむね幕末の1855年に建てられたもので、昭和天皇らの即位の儀式を行った紫宸殿などがある。そばには京都大宮御所があり、御殿は1867年建造。現在も両陛下の地方訪問にあたる行幸啓の際に、宿泊所として使用されている。, 栃木県高根沢町と芳賀町にまたがる御料牧場は、「皇室の牧場」だ。総面積は東京ドームの約54個分に相当する約2.5平方キロメートル。外国大使の信任状捧呈で使われる馬車列などの馬を育成している。, 御料牧場では皇室用の食材も生産している。肉、卵、牛乳、野菜をはじめ、乳製品や肉加工品など多岐におよび、宮中晩さんなどのおもてなしの場面で活用されるほか、皇室の日々の食事にも利用されている。, バナー写真:皇居。左奥に見えるのは東京スカイツリー=2019年3月8日撮影(時事), 皇室 皇居 皇位継承, 皇室の皆さまは東京都内で暮らしている。天皇は皇居を居所とするが、新陛下は当面、これまで通り皇居から西に1.5キロほど離れた赤坂御用地にある赤坂御所(旧東宮御所)にお住まいになる。そのほかの宮家も赤坂御用地などに住まいがある。. 天皇 Semakan Penerima Darjah Kebesaran, Bintang dan Pingat Persekutuan. 学園町の東隣は西東京市ひばりが丘であり、設立したばかりの日本住宅公団(現UR)がつくった有名なひばりヶ丘団地がある。どう有名かというとこの団地は昭和の皇太子・皇太子妃、つまり平成の天皇皇后両陛下が若き日に訪れた団地だからだ。 庭付き戸建を横につなげて 長屋状にした低層団地「テラスハウス」なども見た。テラスハウスは、居間の掃き出し窓をガラガラと開けてそのまま坪庭に出られる感じがたまらない。ここに人が住んでいた頃の光景を思わず空想した。, それにしても、どこまでも続く緑の敷地内を散策していると、ツアーというより遠足のような気分すらしてくる。ひととおり見たところで、僕らは鬱蒼とした葉が涼しい木陰をつくる、住棟前の原っぱのようなスペースに巨大なピクニックシートを広げて、そこで美味しいケータリングのランチをみんなで食べた(今回ケータリングのフードを手がけてくれた駒場東大前のビストロ「PEACE OVEN」さん、ありがとう!)。5月の風が葉を揺らし肌にあたる。こんな気持ちの良い環境で食べる食事は最高だ。今ちょうど団地住まいという、参加者のひとりが言っていた。「3~5月の団地は天国ですよ」。, 午後からの会議に供えて、前もって団地を体感しておいた方がいいだろうという目的で行った団地内散策とランチだったが、結果的にこれ以上ないインプットだったのではないだろうか。団地見学といい、このランチタイムといい。唯一無二の環境を満喫したのだった。, text= 安田洋平(東京R不動産/Antenna.Inc)/photo= 杉浦貴美子, 第1回 京都にある築60年超のRC造・下駄履き団地のリノベーションプロジェクトが始動します!. 天皇皇后両陛下 皇太后陛下へご挨拶(歳末につき)(吹上大宮御所) 注記 本表には,宮中祭祀,宮内庁書類のご決裁,非公式なものなどは含まれていません。 徳仁 ( なるひと 、 ( 1960年〈昭和35年〉2月23日 - )は、日本の第126代天皇(在位:2019年〈令和元年〉5月1日 - )。 称号は 浩宮 ( ひろのみや ) 、お印は 梓 ( あずさ ) 。 敬称は陛下 。 勲等は大勲位菊花章頸飾。. 徳仁(なるひと、(1960年〈昭和35年〉2月23日 - )は、日本の第126代天皇(在位:2019年〈令和元年〉5月1日 - [1])。称号は浩宮(ひろのみや)、お印は梓(あずさ)。敬称は陛下[2][注釈 1]。勲等は大勲位菊花章頸飾。, 明仁(第125代天皇・上皇)と美智子(上皇后)の第1皇男子(2男1女のうちの第1子)。昭和天皇の皇孫。皇后は、雅子(旧姓名:小和田雅子)。皇女子に敬宮愛子内親王(第1子・第1皇女子)がいる。, 第二次世界大戦後、かつ日本国憲法及び現皇室典範下の生まれで即位した最初の天皇。元号法及び元号を改める政令(平成31年政令第143号)に基づいて、即位の日に「令和」(れいわ)と改元された。また、学位を所持し、海外留学の経験を有する。, 住居は、東京都港区元赤坂にある赤坂御用地内の赤坂御所(旧:東宮御所[5])[注釈 2]。, 束帯黄丹袍を着用した皇太子徳仁親王(当時)、1990年(平成2年)11月12日の父天皇明仁の即位礼正殿の儀にて, 1960年(昭和35年)2月23日16時15分[6]、皇太子明仁親王と同妃美智子(いずれも当時)の第一皇男子(2男1女・3人の子女の内、第1子)として、東京都千代田区千代田の皇居・宮内庁病院にて誕生する。同日は2020年(令和2年)以降、天皇誕生日となる。, 誕生時から即位までの身位を付した呼称は、「浩宮徳仁親王」(ひろのみや なるひと しんのう)、敬称は「殿下」(でんか)。, 1989年(昭和64年)1月7日の自身の名付け親でもあった祖父である昭和天皇の崩御により、父の皇太子明仁親王(当時)の皇位継承(第125代天皇即位)に伴い皇太子(皇位継承順位第1位である皇嗣たる第1皇男子、法定推定相続人)となり、1991年(平成3年)には立太子の礼が執り行われた。皇太子となって以降、即位までは、政府の用いる正式表記では、「皇太子」および敬称を冠し「皇太子徳仁親王殿下」(こうたいしなるひとしんのうでんか)、宮内庁含む日本国政府機関では単に「皇太子殿下」(こうたいしでんか)の呼称が用いられた。, 天皇即位以前(皇孫~皇太子時代)、1987年(昭和62年)より2016年(平成28年)まで22回、自身は皇太子として海外訪問の期間または病気療養の期間、父帝から委任を受け国事行為臨時代行を務めた。2016年(平成28年)1月28日には、平成時代の国事行為臨時代行として初の閣僚に対する認証式を行った[7]。, 2019年(平成31年)4月30日午後12時の父親である第125代天皇明仁の退位[8] に伴い、令和元年(2019年)5月1日午前0時[9] に、上皇となった父帝・明仁より皇位を継承し、日本国憲法および天皇の退位等に関する皇室典範特例法に基づき、第126代天皇に即位する[1](明仁から徳仁への皇位継承)。, 皇室男子として珍しく、歴史学(主に交通史、流通史)を専門とする。またヴィオラ演奏、登山、ジョギングを趣味とし、国民にもその姿を度々披露している[10][11]。, 1960年(昭和35年)2月23日16時15分、皇太子明仁親王と同妃美智子(いずれも当時)の第一皇男子(2男1女のうち第1子)として、東京都千代田区千代田の皇居・宮内庁病院にて誕生する。身長47センチメートル、体重2540グラム。[6], 旧皇族や旧華族階級でない、いわゆる平民家庭出身の母親であった皇太子妃美智子の意向に沿い、懐妊に際しては母子手帳が発行され、皇居宮殿内の御産殿での出産をせず一般家庭と同様に病院で行うなど、それまでの皇室の慣例によらない、戦後初の内廷皇族の親王(皇孫、皇太子の長男としてほぼ確実に将来において天皇に即位することが確定している男性皇族)誕生は、広く国民に注目された。同年2月29日に命名の儀において祖父帝の昭和天皇が「浩宮 徳仁(ひろのみや なるひと)」と命名した[注釈 3]。「浩宮」の称号は四書五経のうちの『中庸』第32章にある「浩々たる天」、「徳仁」の名は同じく「聡明聖知にして天徳に達する者」を典拠とする。, それまでの傳育官制度を事実上廃止し、両親である皇太子同妃による育児・子育ても、国民の関心の的となった。中でも、生後7か月の徳仁親王から離れて皇太子同妃が14日間の公務訪米の際に、皇太子妃美智子が世話係へ書き置いた育児メモ「ナルちゃん憲法」は、子供を預けて勤労する一般家庭の母親たちの育児指針としても共感を呼んだ。, 1964年(昭和39年)4月13日、学習院幼稚園に入園する。同年11月1日には着袴の儀を行う。両親である皇太子同妃は、専任の養育係を置かず、子育てを行った。ただし、東宮侍従の濱尾実が、徳仁親王が1歳3か月の時から初等科5年生まで、専任の養育係に準ずる存在として養育および教育に貢献している。徳仁親王は濱尾を「オーちゃん」と呼び、濱尾家の子ども達とも親しく遊んでいた[12]。両親の下で、弟・礼宮文仁親王、妹・紀宮清子内親王とともに育つ徳仁親王の様子は、報道を通じてしばしば公表され、一般国民の感覚に近寄った戦後の幸福な家庭像を描くとともに、新しい皇室像の形成にも大きく寄与した。, 1966年(昭和41年)4月8日、学習院初等科に入学する。この頃から稲田悦子参与の指導でフィギュアスケートを始める(大学生の時にスピードスケートに転向)。学習院高等科時代は、正規の授業のほか、「『将来の天皇』としての素養を身につけさせる」という目的の下で、東宮御所におけるご進講の形で「歴代天皇の御事跡」や『古事記』『日本書紀』といった皇室史に関わる日本神話、『万葉集』『平家物語』など日本の古典文学から比較神話学、文化史、文化人類学、時事問題などを幅広く学習した。「帝王学」の一環と考えられる[13]。学習院大学では音楽部に所属しヴィオラを担当した。在学中の1980年(昭和55年)2月23日、満20歳で成年式を執り行った。, 1982年(昭和57年)3月に学習院大学文学部史学科を卒業した(文学士)。その後、同大学大学院人文科学研究科博士前期課程に進学。それまでの多くの皇族が、生物学を中心とした自然科学を専攻したのに対して、徳仁親王は史学、中世の交通史・流通史という人文科学・社会科学に近い分野を専攻した。, 1983年(昭和58年)から1985年(昭和60年)にかけて、英国オックスフォード大学マートン・カレッジ(英語版)に留学して、テムズ川の水運史について研究[14]。1988年(昭和63年)には、学習院大学大学院人文科学研究科の博士前期課程を修了した(人文科学修士)。この間、1987年(昭和62年)10月3日から10月10日には昭和天皇の病気療養と父・皇太子明仁親王の外国訪問が重なり、初めて国事行為臨時代行に就いた。, 昭和時代の末より、徳仁親王の伴侶たる親王妃候補について様々な憶測が報道されるようになり、1986年(昭和61年)10月18日、来日中のスペイン王女エレナ・デ・ボルボーン・イ・デ・グレシアの歓迎パーティーに親臨した際、外務省に勤務する女性国家公務員であった小和田雅子と知り合う(後述→#結婚までの経緯)。, 1989年(昭和64年)1月7日、祖父昭和天皇の崩御を受け、父の皇太子明仁親王が第125代天皇に即位した。これに伴い、皇位継承順位が第1位となり、徳仁親王は皇太子(皇嗣たる皇子/皇男子、法定推定相続人)となった。また、それまで両親および弟妹の家族と同居していたがこれを機に別居、独立した。, 父帝の即位の礼などを経て、1991年(平成3年)2月23日、満31歳となった日に立太子の礼が執り行われた。また同日、皇太子の印とされる「壺切御剣」を父帝から親授された。, 1993年(平成5年)1月19日、皇室会議において婚姻の相手に小和田雅子(当時:外務省北米局北米二課職員)を内定。同年6月9日に結婚の儀が執り行われた。, 1986年(昭和61年)10月18日、東宮御所で催されたスペイン国王フアン・カルロス1世の娘エレナ王女歓迎の茶会に、外務省条約局長だった小和田恆とともに招かれた、恆の長女で外務公務員I種試験に合格して間もない小和田雅子と初対面を果たす。1987年(昭和62年)4月25日には、高円宮憲仁親王同妃久子が高円宮邸に徳仁親王と小和田雅子を招き、親交を深めるきっかけを作った。[15], こうして親王妃候補の一人となった雅子の母方の祖父・江頭豊は銀行員であったが、四大公害病の筆頭である水俣病を引き起こした日本窒素株式会社のメインバンクから水俣病患者の補償部門として新設されたチッソに派遣されその後、社長に就任したことやメディアスクラムの被害、雅子自身の外交官の仕事への熱心さから、親王妃候補から外れた。しかし、この間も徳仁親王の念頭には雅子の存在があり、他の妃候補が同様のメディアスクラムの被害を受けるなどして次々と辞退したことと徳仁親王の希望もあり他の親王妃候補と平行して話が進んだ。宮内庁内の反対の流れを大きく変えたのは元最高裁判所判事であり当時宮内庁参事であった団藤重光の「江頭氏は再建のため日本興業銀行からチッソに入った。再建できなければ被害者への補償も不可能になった。水俣病の発生について法的責任はない」との見解であった。前宮内庁長官の富田朝彦は後に「和解案を裁判所が提出するとか、前向きの形といいますか、取り組みといったものが出てまいりまして、それでいまの藤森昭一長官ともその情勢をいろいろと話し合って、もうここまでくればいつまでも見守るという態勢ではないだろうと。そろそろいい時期にきたかなと、こういうふうになってきたのが大体の経緯です」と述べている[16]。, また、天皇明仁と皇后美智子(いずれも当時)は「『皇太子が選んだ相手との話を進めてもらいたい』との大御心を宮内庁に伝えた」とされる[17]。小和田雅子が英国留学から帰国した後に、藤森昭一宮内庁長官の依頼を受けた[18]、元外務事務次官柳谷謙介が宮内庁と小和田家の仲介役を務め、1992年(平成4年)8月16日、柳谷邸にて徳仁親王と雅子が再会し、交際も再開した。同年10月3日に宮内庁新浜鴨場でのデートで徳仁親王が求婚した。小和田家側は辞退したが、徳仁親王は雅子に「天皇皇后両陛下も『温かくお迎えする』とおっしゃって下さっている[19]」旨を伝えた。そして12月12日に東宮仮御所において雅子は婚約の受諾を伝えた。12月25日に東宮仮御所で、徳仁親王は雅子を天皇と皇后に紹介し歓談した。, 翌1993年(平成5年)1月6日午後8時45分、報道協定が解除されたため、テレビ各局は通常番組を中断して雅子が皇太子妃に内定したことを報道した。同年1月19日、皇室会議(議長:宮澤喜一内閣総理大臣/宮澤改造内閣)において「皇太子徳仁親王と小和田雅子の婚姻」が全員一致で可決され、同日二人による記者会見が行われた。翌日からは多数の企業が祝賀広告を新聞に掲載するなど国民は祝賀ムードに包まれた。同年4月12日の納采の儀(婚約)を経て、同年6月9日に結婚の儀が執り行われた。その他の有力候補には天皇の学友で元華族男爵の明石元紹の長女がおり、1988年(昭和63年)秋の秋篠宮文仁親王のダブル婚約の動きがあったが明石家の辞退でこの話は立ち消えた。その後最も有力といわれた妃の候補には旧皇族で久邇邦昭の長女(香淳皇后の大姪)がおり、数回見合いをして電話やファックスのやり取りを重ね、前年には旧皇族の久邇家も当人も了承し内定寸前まで話が進んだが、皇太子自身が小和田雅子への思いを捨てきれず破談となった[20]。, 同日、午前8時30分から2時間55分にわたってNHK(日本放送協会)が中継放送した「皇太子徳仁親王と小和田雅子の結婚の儀」の平均視聴率は30.6%(ビデオリサーチ・関東地区調べ)を記録した。そして成婚パレードの沿道には約19万人が集まり、そのテレビ中継の最高視聴率は79.9%を記録するなど、盛大な祝福を受けた[21]。また当日は、「皇太子徳仁親王の結婚の儀の行われる日を休日とする法律」が制定されて休日となった。また各地で神輿・山車が繰り出され、提灯行列や花火の打ち上げや餅つき、国営公園の無料開放などが行われた。, 成婚8年後の2001年(平成13年)12月1日、妃雅子との間に第1子で第1皇女の敬宮愛子内親王が誕生した。, 皇太子となってからは、外国を度々訪問し、皇室外交の進展を図っている。また、公務の傍ら1991年(平成3年)9月には、イギリスの名門の一つであるケンブリッジ大学から名誉法学博士号を授与されている。そして1992年(平成4年)4月からは学習院大学史料館客員研究員の委嘱を受け、日本中世史の研究を続けている。学習院女子大学国際文化交流学部の授業では、「北米文化の源流・イギリスの社会と文化」や「オックスフォードにおける学生生活」について講義を行い、名誉総裁として臨席した世界水フォーラムの開会式では、「京都と地方を結ぶ水の道」や「江戸と水運」と題した講演を行なっている。, 2004年(平成16年)5月10日、欧州3か国歴訪を前にした会見内で「雅子のキャリアや、そのことに基づいた雅子の人格を否定するような動きがあったことも事実です」と発言した(いわゆる「人格否定発言」)。同発言は、皇太子一家と皇室・宮内庁の間に不和があることを浮き彫りにし、大きな反響を呼んだ。同年7月に妃雅子が療養している事実が正式に発表され、以後徳仁親王は単独で公務・祭祀を行うことがほとんどとなった。, 2007年(平成19年)3月27日、定期健康診断で十二指腸にポリープが発見された。同年5月には良性と診断されたが、同年6月6日に十二指腸ポリープの内視鏡による切除手術を東京大学医学部附属病院(東京都文京区)で受けた。同年11月1日、国連「水と衛生に関する諮問委員会」の名誉総裁に就任。日本の皇族が国連などの常設の国際機関の役職に就くのは初である[22]。, 2009年(平成21年)11月8日から11月20日まで来日した彭麗媛が団長を務める中国人民解放軍総政治部の歌舞団が東京と札幌で中国歌劇『木蘭詩編』を学習院大学で公演した際に皇太子は私的に会場に行啓し、2階VIP席で彭麗媛と隣り合わせの席で台覧して言葉を交わしており、彭麗媛の夫の習近平の天皇特例会見と同様に「中華人民共和国による皇室の政治的利用」と批判されることになった[23][24]。, 2013年(平成25年)3月6日、米国ニューヨークの国連本部で開かれた「水と災害に関する特別会合」において英語で基調講演を行った。同会合は、東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)など世界的な水災害の増加を受け国連で初めて開催された会合である[25]。, 2016年(平成28年)1月28日、父帝・明仁が皇后美智子(当時)とともに第二次世界大戦戦没者慰霊を目的としたフィリピン訪問のために不在であったことから、第3次安倍第1次改造内閣で経済財政担当大臣が甘利明から石原伸晃へ交代したことに伴う閣僚の認証官認証式を国事行為臨時代行の形で執り行った[26]。, 2017年(平成29年)6月16日、天皇の退位等に関する皇室典範特例法公布、同年12月1日開催の皇室会議(議長:安倍晋三内閣総理大臣)及び12月8日開催の第4次安倍内閣の定例閣議で同法施行期日を規定する政令が閣議決定され、徳仁親王が2019年5月1日に、第126代天皇に即位する日程が確定された。, 2019年(平成31年)4月30日午後12時、天皇の退位等に関する皇室典範特例法に従って第125代天皇明仁が退位し、2019年(令和元年)5月1日午前0時、皇太子徳仁親王が第126代天皇に即位した。先帝・明仁は同日、上皇となった[27]。, 仁孝天皇以来およそ202年ぶり、かつ、一世一元の制となった明治以降初めて、先帝からの譲位に伴い即位した天皇となった。また、59歳(数え60歳)での即位は、光仁天皇の61歳(数え62歳)に次ぐ、歴代で2番目に高齢での即位である。, 天皇の即位の日及び即位礼正殿の儀の行われる日を休日とする法律により、2019年5月1日は「天皇の即位の日」、同年10月22日は「即位礼正殿の儀が行われる日」とされ、共に同年限りで祝日扱いの休日となる[28]。, なお皇太子徳仁親王の天皇即位に伴い、「皇太子」は、1926年(大正15年/昭和元年)12月25日の大正天皇崩御による昭和天皇の即位から1933年(昭和8年)12月23日の父の上皇(継宮明仁親王)の誕生するまで以来86年ぶりで、現行の皇室典範の下では初めて「空位」となった[注釈 4]。代わって、弟・秋篠宮文仁親王が皇嗣(皇位継承順位第1位)となった。, 即位の日、天皇は赤坂御所から皇居宮殿に向かい、即位の礼最初の儀式である「剣璽等承継の儀」に臨んだ。これには、皇位継承資格を有する成年の男性皇族、弟の秋篠宮文仁親王と叔父の常陸宮正仁親王、その他三権の長(内閣総理大臣安倍晋三、衆議院議長大島理森、参議院議長伊達忠一、最高裁判所長官大谷直人)や閣僚(第4次安倍第1次改造内閣)らが参列した。その後に、皇后雅子をはじめ、皇嗣妃となった文仁親王妃紀子ら、成年の女性皇族らも参列に加わって行われた「即位後朝見の儀」において、天皇として初めて「おことば」を述べた。5月4日には新天皇の即位を奉祝する一般参賀が皇居で行われ、「おことば」を述べた[29]。, 5月9日、第198回国会(常会)衆議院は、即位に祝意を示す「賀詞」を全会一致で議決した[30][31]。5月15日、参議院も同様の「賀詞」を全会一致で決議し[32]、日本共産党も、衆議院では条件付きで、参議院では異論なしに賛成した[33]。, 5月9日、離任する駐日中華人民共和国大使の程永華と即位後初の外国賓客の引見を行い[34]、国際親善の公務を開始した[35]。, 5月10日、財務省は、天皇陛下御即位記念貨幣(一万円金貨幣および五百円バイカラー・クラッド貨幣)の発行を発表した[36]。, 5月25日から28日の日程で、アメリカ合衆国大統領のドナルド・トランプ及び夫人メラニア・トランプ(アメリカ合衆国のファーストレディ)が、令和時代初の国賓として訪日した[37]。天皇徳仁は5月1日の即位後初の国賓として接遇した。, 5月27日に、徳仁とドナルド・トランプ、雅子とメラニア・トランプが15分ほどの会見を行い、主に父帝の退位と自身の即位、日米の交流、26日の大統領夫妻の相撲観戦など日本文化の3つが話題になった。一方、雅子とメラニアとの間では、子供の教育やスポーツ、大統領夫人が取り組んでいる青少年育成活動に関することなどが話題に上り、外国滞在と外交官(外務省職員)としての勤務経験を有する皇后雅子は、通訳を介さず会話した。会見では贈り物の「御贈進品」の交換も行われた。天皇徳仁・皇后雅子は大統領に濃い青色の円すい形の飾り鉢を、メラニア夫人へは金細工を施した飾り箱を、それぞれ贈呈した。大統領夫妻からは徳仁が趣味で演奏するビオラ(ヴィオラ)が、雅子にはハーバード大学で伐採した樹木で創作されたペンが、それぞれ贈呈された。贈呈されたビオラについて、雅子が「陛下、今夜お弾きになられたら」と話すと、徳仁が笑顔を見せる場面もあった[38]。また同日に皇居宮殿で行われた、「アメリカ合衆国大統領閣下及び同令夫人のための宮中晩餐」にて「おことば」を述べた[29]。, 2019年(令和元年)10月22日、皇居宮殿正殿・松の間にて即位の礼の中心儀式である即位礼正殿の儀が執り行われた[39]。, 同年11月9日、皇居前広場にて開催された「天皇陛下御即位をお祝いする国民祭典」に際し、皇后雅子とともに二重橋に姿を見せ、「おことば」を述べた[40]。, 同年11月10日、皇居から赤坂御用地までオープンカーによるパレードを行う「祝賀御列の儀」(しゅくがおんれつのぎ)が執り行われた[注釈 5]。, 同年11月14日及び15日に、一世一度の宮中祭祀である大嘗祭(だいじょうさい)の中心儀式「大嘗宮の儀」(だいじょうきゅうのぎ)を実施。, 同年12月4日、天皇と皇后は皇居宮中三殿の賢所で、皇位継承に伴う一連の国事行為「即位の礼」と、一世一度の重要祭祀「大嘗祭」を終え、皇祖神の天照大神に感謝を込めて神楽を演奏する「賢所御神楽の儀」に臨んだ。同年5月から続いていた即位関連儀式の締めくくりとして行われ、皇嗣秋篠宮文仁親王同妃紀子をはじめとする皇族も参列した。儀式では神楽の演奏の前に、16時半頃、黄櫨染御袍に身を包んだ天皇徳仁が賢所にて、三種の神器のうち剣と璽(勾玉=まがたま)を捧げ持つ侍従らと共にゆっくりと回廊を進み、拝礼した。続いて、十二単の装束を着用した皇后雅子も拝礼。参列の皇族も賢所の前で拝礼した。これに先立ち、天皇・皇后は同日午前、即位の礼と大嘗祭を終了したことを奉告する「親謁の儀」で宮中三殿に拝礼した。同年5月1日、天皇が皇位継承の証として三種の神器の一部を引き継ぐ「剣璽等承継の儀」から始まった一連の即位関連儀式はこれで全て終了した。, 2019年(令和元年)5月1日の即位日に、御料車で赤坂御所と皇居間を移動する天皇と皇后。, 訪日中の米国大統領ドナルド・トランプと同夫人メラニアを招いての宮中晩餐会(2019年5月27日), 即位後の1年間で、両親の上皇・上皇后から公務を引き継ぎ、皇后同伴での日本各地への行幸啓(式典等含む)をした。2019年(令和元年)は、「第70回全国植樹祭」(6月2日:愛知県森林公園)、「地球科学・リモートセンシング国際シンポジウム2019開会式」(7月29日:パシフィコ横浜)、「全国戦没者追悼式」(8月15日:日本武道館)、「第39回全国豊かな海づくり大会」(9月8日:秋田県立武道館)、「第34回国民文化祭・第19回全国障害者芸術・文化祭」(9月16日:朱鷺メッセ)、「第74回国民体育大会」(9月28日:笠松運動公園陸上競技場)、「第60回海外日系人大会記念式典」(10月1日:憲政記念館)、「更生保護制度施行70周年記念全国大会」(10月7日:東京国際フォーラム)、2020年(令和2年)は、「国立障害者リハビリテーションセンター及び国立職業リハビリテーションセンター創立40周年記念式典」(1月22日:国立障害者リハビリテーションセンター)への臨席にて、「おことば」を述べた(「地球科学・リモートセンシング国際シンポジウム2019開会式」のみ、英語による)[29][41]。, 2019年(令和元年)12月26日、同年10月発生の令和元年台風第19号などの被災地を見舞うため、皇后同伴で宮城県と福島県を日帰りで訪問した[42]。現地の負担を考慮し、両県間などの移動は自衛隊ヘリコプターを利用。天皇・皇后の被災地訪問は同年5月の徳仁即位後、初の機会となった。天皇・皇后は同日、特別機で仙台空港に到着後、ヘリコプターに乗り換え、10人が犠牲となった宮城県伊具郡丸森町に移動。阿武隈川(あぶくまがわ)の支流が氾濫し、流木や土砂が残る地区を視察した。仮設住宅の集会所では、被災者に声をかけ、災害対応に尽力した関係者もねぎらった。福島県本宮市では、決壊した安達太良川(あだたらがわ)堤防の復旧状況を視察した後、台風19号の発災後に避難所として使用されていた保健・福祉施設を訪問し、被災者を気遣う言葉をかけた[43]。, 2020年(令和2年)1月1日、即位後初の正月を迎え、重要な年始の宮中祭祀である四方拝、歳旦祭の儀に臨む[44]。その後、皇后雅子とともに新年祝賀の儀に臨む[44]。1月2日、退位後初めて公の場に姿を見せる両親の上皇・上皇后とともに新年一般参賀に臨む[44]。1月3日、元始祭の儀に臨む[44]。1月14日に講書始の儀、1月16日に歌会始の儀に他の皇族らとともに臨む[44]。, 同年1月25日、雅子と愛子内親王同伴で両国国技館(東京都墨田区)を訪れ、大相撲初場所14日目の取組を観戦した。徳仁と雅子の大相撲観戦は2017年(平成29年)5月以来で、天皇即位後初の天覧相撲となる。愛子内親王は2007年(平成19年)9月以来の観戦となった[45]。, 同年2月10日、三の丸尚蔵館での御即位記念特別展「令和の御代を迎えて」を皇后雅子同伴で鑑賞[44]。, 同年2月23日、即位後初の天皇誕生日で60歳(還暦)を迎える。同日実施予定の皇居での天皇誕生日一般参賀は、新型コロナウイルス感染拡大の影響のため中止となる。その2日前の2月21日、赤坂御所での記者会見に臨む[46]。, 同年4月6日、宮内庁は、天皇即位に伴う社会福祉事業への寄付について、政府が創設した「子供の未来応援基金」と、国やボランティア団体の調整役などを担うNPO法人(特定非営利活動法人)「全国災害ボランティア支援団体ネットワーク」に、それぞれ5千万円ずつ行うことを発表した。寄付金は天皇の私的な「お手元金」から拠出され、それぞれ子供の貧困問題関連事業と、被災者支援関連事業に充てられるという。宮内庁の池田憲治次長は同日の定例会見で「天皇、皇后両陛下は、子供の貧困問題と、平成時に数多く発生した災害を契機に役割が高まっているボランティアによる被災者支援に対する国民の理解が深まることを願われている」と述べた。日本国憲法第8条では皇室が寄付をする場合、国会の議決が必要と規定、寄付額が年間1800万円を超える場合に適用される。同年3月の第201回国会(常会)参議院本会議で、天皇が4月30日までの間、社会福祉事業へ1億円以内の寄付をすることを可能とする議決案を可決した。父帝の即位の際にも、児童福祉と障害者支援の2団体に5千万円ずつ計1億円が寄付された[47][48]。, 4月10日、天皇・皇后は住居の赤坂御所に政府の新型コロナウイルス感染症対策専門家会議副座長尾身茂を招き、尾身による進講として約1時間半にわたり国内外の感染状況などについて説明を受けた(3名全員マスク着用)。当初は4月6日に予定されていたが、緊急事態宣言の発令に際し、延期されていた。徳仁は冒頭、医療関係者らに感謝を示した上で、「私たち皆がなお一層心を一つにして力を合わせながら、この感染症を抑え込み、現在の難しい状況を乗り越えていくことを心から願っています」と述べた。徳仁・雅子はメモを取りながら、「どうすれば医療崩壊を防げるか」などについて積極的に質問し、「国民が一丸となって乗り越えなければならないですね」などと話した[49]。, 新型コロナウイルス(COVID-19)感染拡大を巡っては、徳仁と雅子は同年3月、愛子内親王の学習院女子高等科卒業に際して公表した文書でも「我が国の国民、そして世界の多くの人々が直面している様々な困難や苦労に深く思いを致しています」と憂慮していた[50]。, 徳仁は同年4月14日午後、マスク姿で皇居に入り、稲の2品種(うるち米ともち米)の苗に育つ種籾をまく農作業をした。天皇による皇居での稲作は、昭和天皇が農業従事者の苦労を感じるために始めた。天皇の代替わりのあった昨年の2019年(平成31年)4月は父上皇(当時天皇)が種まきをし、天皇徳仁が田植えと収穫をした。この米は、徳仁が田植えや収穫をした後で、宮中祭祀などで使用することを検討している。, 皇后雅子との間に、1女(1人)がいる。明仁(上皇、第125代天皇)の皇孫にあたる。, 2016年(平成28年)1月、昭和天皇在位中に皇孫として1回、天皇明仁(当時)の即位後に皇太子として21回、天皇から委任を受け国事行為臨時代行を務めている。, 2000年(平成12年)11月19日、皇太子妃雅子の実妹である小和田礼子の結婚披露宴(東京都文京区)に親覧した。2004年(平成16年)11月19日、祖母に当たる江頭寿々子が病床にあったときは、愛子内親王を伴って東京都目黒区の円融寺に見舞いに訪れており、2006年(平成18年)に雅子の祖父である江頭豊が死去した際には雅子に同行、東京都新宿区の千日谷会堂の葬儀に親覧している。, 各列内は五十音順。※ 1 日本の学説の大多数は内閣または内閣総理大臣を元首としている。内閣は定義いかんでは天皇を元首といっても差し支えないとしている。日本の元首も参照。※ 2 ヨーロッパにも分類され得る。※ 3 一部はアフリカに含まれる。, マスメディアの皇室関連報道や政府系機関などでは主に、地位・称号である「天皇」に敬称「陛下」を付した「, 2019年(令和元年)5月1日内閣告示第3号「天皇皇后両陛下の御在所が定められた件」, 明仁が4月30日午後12時(=5月1日午前0時)を以って退位し、同時に徳仁が即位した為、空位は生じていない。, 『読売新聞』2009年12月15日『特例会見、中国では「次の最高指導者」周知の意図』, reinanzaka-sc.o.oo7.jp/kiroku/documents/20140523-3-kiji-list.pdf, http://jp.reuters.com/article/idJP2016012801001922, “新天皇に初めて面会、新聞に寄稿…日中関係の一層の発展を願い離任した程永華駐日大使―中国メディア”, https://www.recordchina.co.jp/b709390-s0-c10-d0135.html, https://www.nikkei.com/article/DGXMZO44582910Z00C19A5CR8000/, トランプ夫妻から陛下にビオラ贈進 皇后さま「今夜お弾きになられたら」 両陛下とトランプ夫妻ご会見, https://www.kunaicho.go.jp/about/gokomu/odemashi/odemashi.html, https://www.sankei.com/life/news/191226/lif1912260020-n1.html, https://www.kunaicho.go.jp/page/gonittei/show/2?quarter=202001, https://www.sankei.com/life/news/200125/lif2001250040-n1.html, “天皇陛下お誕生日に際し(令和2年) 天皇陛下の記者会見(会見年月日:令和2年2月21日、会見場所:赤坂御所) - 宮内庁”, https://www.kunaicho.go.jp/page/kaiken/show/30, https://www.kunaicho.go.jp/page/okotoba/show/49, https://www.sankei.com/life/news/200406/lif2004060052-n1.html, https://www.kunaicho.go.jp/page/okotoba/show/51, https://www.sankei.com/life/news/200410/lif2004100126-n1.html, 皇太子さま、市民とご交流 ビール勧められ「次の機会に」 デンマークで運河沿いご散策, Reply to a parliamentary question about the Decoration of Honour, Guillaume and Stephanie of Luxembourg’s religious wedding Ceremony. 令和 Filipino recipients of Japanese decorations and Japanese recipients of Philippine decorations, Wedding Of Swedish Crown Princess Victoria & Daniel Westling - Arrivals, Glittering Royal Events Message Board: Coronation in Tonga, “Crown Princess Masako completes first duties abroad in more than 2 years”, http://web.archive.org/web/20150705051734/http://ajw.asahi.com/article/behind_news/social_affairs/AJ201507040031, 天皇陛下の「東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会」名誉総裁御就任について, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=徳仁&oldid=80360539, 「誰とでも気軽に話が出来る人。人と会った時でも話し合える環境を自然に作り出せる女性。話す時は控えめではあっても、必要な時は自分の意見をしっかり言える女性」, 以上、1985年(昭和60年)、留学先のイギリスから帰国後の記者会見で、「どのような方を妃として望むか」という質問に対して。, 1983年(昭和58年)留学した、オックスフォード大マートンコレッジ(1264年創立)について。, 「自分の意見をはっきり述べ、服装も(日本の女性と比べて)気取らず地味なのに感心しました」, 「川嶋家に色々問い合わせが来て、二人の間が不安定になっているのはよくないということもありました。二人の結婚は私も強く勧めたところです。私についてはマイペースでやっていきたいと考えております」, 「立太子宣明の儀が行われ、誠に身の引きしまる思いであります。皇太子としての責務の重大さを思い、力を尽くしてその務めを果たしてまいります」, 「皇室に入られるということには、いろいろな不安や心配がおありでしょうけれども、雅子さんのことは僕が一生全力でお守りしますから」, 1992年(平成4年)11月後半に交際中の小和田雅子(当時)にかけた言葉、婚約内定の記者会見にて雅子妃が披露した, 2007年(平成19年)2月21日、誕生日に際する記者会見にて、悠仁親王誕生についての質問に対して。, 「両陛下のこれまでの歩みについては、常に深くご尊敬申し上げており、両陛下のご活動の一つ一つから多くを学んでまいりました」, 「若い世代が国の内外で自信を持って活躍し、女性・高齢者・障害者を含め全ての人々が、社会に積極的に参画できるような活力のある社会を構築するために、(中略)私自身、今年も、国の内外で若者や, 2013年(平成25年)2月21日、誕生日に際する記者会見にて、前年6月に20年ぶりに開催された「国連, 「過去の天皇が歩んでこられた道と、そしてまた、天皇は日本国、そして国民統合の象徴であるとの日本国憲法の規定に思いを致して、国民と苦楽を共にしながら、国民の幸せを願い、象徴とはどうあるべきか、その望ましい在り方を求め続けるということが大切であると思います。同時に、これまで行われてきている公務を踏まえつつ、将来にわたり生じる日本社会の変化に応じて、公務に対する社会の要請に応えていくことが、重要であると考えております。私としても、常に学ぶ姿勢を忘れずに、他人への思いやりの心を大切にしながら、世の中のためにできることを心掛けてやっていきたいと思っております」, 同記者会見にて、将来天皇となる立場から、公務をどのようなものと考えているのかという質問に対して。, 「私、それから秋篠宮が折に触れて、陛下の所で、陛下のご意見を伺ったり、あるいはいろいろな意見交換をするということは、非常に私自身も大切なことだと思いますし、私自身も大変有意義な一時を過ごさせていただいております。陛下と折に触れてご質問の象徴天皇の在り方について、具体的にどういうことを話しているかは申し上げられませんけれども、陛下ご自身がいろいろ思われていること、あるいは体験されてきたことなどをお話しくださるので、私としても本当にいろいろと参考にさせていただいておりますし、大変有り難いことだと思っております」, これからのことを思うと、とても厳粛な気持ちになりますが、引き続き自己研鑽に努めながら、過去の, 皇室の将来像についての御質問については、男性皇族の割合が減り、高齢化が進んでいること、また、女性皇族は結婚により皇籍を離脱しなければならないということは、将来の皇室の在り方とも関係する問題です。ただ、制度に関わる事項については、私からこの場で言及することは控えたいと思います。, 皇室の在り方に関しては、国民と心を共にし、苦楽を共にする皇室、ということが基本であり、これは時代を超えて受け継がれてきているものだと思います。過去の天皇が歩んでこられた道と、, 同時に、その時代時代で新しい風が吹くように、皇室の在り方もその時代時代によって変わってくるものと思います。私も、過去から様々なことを学び、古くからの伝統をしっかりと引き継いでいくとともに、それぞれの時代に応じて求められる皇室の在り方を追い求めていきたいと思います。」, 2019年(平成31年)2月21日、皇太子として迎える最後の誕生日(59歳)に際する記者会見にて(場所:東宮御所)、「(自身が)新天皇として即位するまで残り2か月余りとなり、皇太子としての歩みを振り返るとともに、即位を控えた現在の心境や、新たな時代に臨む決意及び皇室全体で皇族の減少や高齢化が進んでいることを踏まえつつ、どのような皇室の将来像を描こうとしているのか」という質問に対して, 「さきに、日本国憲法及び皇室典範特例法の定めるところにより皇位を継承いたしました。ここに『, 「上皇陛下の御退位を受け、昨年5月に即位して以来、国民の幸せを願いながら日々の務めを果たし、今日まで過ごしてきました。即位関係の諸行事を無事に終えることができ、安堵するとともに、国内外の多くの方々とお会いし、折々に温かい祝福を頂く機会も多かったこの1年は、私にとっても皇后にとっても誠に感慨深いものでした。その一方で、昨年も台風や大雨により、多くの尊い命が失われたことに心が痛みます。寒さも厳しい折、住まいを失い、いまだ御苦労の多い生活をされている多くの方々の身を案じております。本年は、災害がない1年となることを祈ります。新しい年が、日本と世界の人々にとって幸せな年となることを心より願いつつ、務めを果たしていきたいと考えています。」, 「即位の年齢については、歴代天皇の中では、より高齢で即位された天皇もおられますが、, 「この度の感染症の拡大は、人類にとって大きな試練であり、我が国でも数多くの命が危険にさらされたり、多くの人々が様々な困難に直面したりしていることを深く案じています。今後、私たち皆がなお一層心を一つにして力を合わせながら、この感染症を抑え込み、現在の難しい状況を乗り越えていくことを心から願っています。」, 2020年(令和2年)4月10日、尾身茂新型コロナウイルス感染症対策専門家会議副座長 御進講時, 幼少時(2歳頃)の徳仁親王は、身体は活発だが器用な方ではなかった。しかし、何事にも非常に粘り強く頑張る性格で服のボタン留めなども丁寧にやりとげていた。, ヴィオラは、友人知人や演奏家を招いた際などに私邸で演奏するほか、学習院OB演奏会の, 徳仁親王は2007年(平成19年)の誕生日会見で、「(愛子内親王が、)(自身の祖父母にあたる)両陛下とお会いする機会を作っていきたい」と表明したが, 「関銭-兵庫関 兵庫北関代官職請文」、『東大寺文書を読む』堀池春峰監修・綾村宏:編、.
2020 ひばりヶ丘団地 天皇陛下