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‘まちづくり’ カテゴリーのアーカイブ

紀伊半島大水害
土砂ダムが決壊した天川村・坪内

2012 年 10 月 22 日 月曜日

昨年の紀伊半島大水害の災害対策現場を10月9日から二泊三日でまわった。

大規模天然ダムの対策地、北股と熊野、天然ダムが決壊して大規模な対策が必要な3箇所、土石で埋もれた那智川、7箇所で越水した熊野川、熊野川の支川で輪中堤が浸水した被災地をまわった。

 

9日9時に五條市にある国土交通省近畿地方整備局の紀伊山地砂防事務所へ。

奈良県・和歌山県から要請を受けて国が進めている対策工事の拠点だ。別の事務所と相部屋ならぬ相建物。職員さんは22人で、うち技術系が7人という。

大下正和副所長が北股、熊野、3箇所の対策地、那智川を案内してくださる。ありがたい。

大下さんは9月12日~14日、深層崩壊で土砂ダムができた栗平にTEC-FORCEとして入ったという。10月7日に北股地区担当の監督官として五条監督官詰所に異動し、紀伊山地砂防事務所が開設された4月6日からここに。大下さんは紀伊半島大水害から離してもらえないようだ。

■天川村 坪内

坪内地区では3箇所で深層崩壊が発生し、それぞれで土砂ダムができ、うち2箇所で決壊した。教職員住宅と村営住宅2戸が決壊した土石流で全壊、58戸が床上浸水、行方不明者1人。

国交省が担当しているのは、高さ150メートル崩落した箇所。もともと奈良県が土砂を取り除き、埋もれた県道を川側につけかえたが、12月15日から国交省が引き継いだ。

いま道路のあるところは天の川という川だった。

坪内 土砂ダム決壊で流れが変わった天の川

坪内 土砂ダム決壊で流れが変わった天の川

仮の護岸工事は完了していた。

今年6月の台風4号の豪雨で、十分安全に流れるはずだったのに、上流のキャンプ場が浸水してしまった。

地元からは、もっと河道を広げるよう強く要望されていて、崩落した対岸の岩山をさらに切り落とすという。琵琶湖から唯一流れ出る瀬田川のネックだった大日山を思い出した。

坪内の大規模土砂崩落パン 動画

大下さんがいっしょに解説してくれた。=*^-^*=

紀伊半島大水害
ヘリ通勤した栗平

2012 年 9 月 26 日 水曜日

5つの土砂ダムのうち、もっとも崩落土砂量が多かったのがここ栗平、1390万立米。650メートル上から幅950メートルにわたってごっそり、えぐられた。

20120827栗平CIMG3681

栗平

しかし、この土砂ダムの決壊土砂到達範囲内に民家がなかったため、10月8日まで復旧対策工事は着手されなかった。
この理由はさておき・・・、
地上からのルートはなく、資機材も人もすべてヘリで運搬した。
作業する人々のヘリ通勤は4月15日まで続いたという。

ここに取材が入るのは、はじめてとのこと。
工事現場への進入路はまだ整備中で、バギー車でしか行けない。

栗平でバギー車に乗って現場へ

栗平でバギー車に乗って現場へ

バギー車に乗るのは初めてだ。
運転席をみていると運転感覚はバイクに近い。
やっぱり気になるから、運転してくれたお兄さんに聞いた。
「これ、なんぼぐらいしますん?」
「はっきり知りませんが、国産の高級車並みらしいです」
うむうむ・・・800万円ぐらいか。

このバギー車で悪路も川の中も躊躇なく進み、現場に到着できた。
バギー車が入ることができるようになるまで、彼らは山の中を歩いて通勤したという。

20120827栗平CIMG3690

この現場では、巨大な放水路がつくられていた。

20120827栗平CIMG3685

 

紀伊半島大水害 五條市大塔町宇井
土砂ダムが1時間半後に決壊、河床10メートル高く!

2012 年 9 月 20 日 木曜日

ここは熊野川が大きく湾曲しているところ。
9月4日朝に土砂崩壊が起こり、土砂は川をせき止め、段波と土砂は対岸の高台まで35メートル乗り上げた。1時間半後の7時過ぎにせき止めが決壊、7人が亡くなり、いまも4人が行方不明という。土砂崩壊は高さ約240メートル、長さ450メートルにおよぶ。

土砂ダムが決壊し、段波と土砂が高さ35メートルまでいった宇井地区

土砂ダムが決壊し、段波と土砂が高さ35メートルまでいった宇井地区

ここの緊急工事は土砂を取り除き河道を広げること。
すでに13万立米は今年の春に移動させた。

熊野川に流れ込んだ土砂は34万立米。
それらを取り除く工事は奈良県が担当だ。

土砂は恐い。
水なら流れをつくってやれば自ら動いてくれるが、
土砂はさらに巨石も含み、すべて人の力で移動させるしか手がない。

 

宇井地区の緊急工事

宇井地区の緊急工事

まちづくりの助っ人、復興まちづくりは他人事か?

2012 年 9 月 20 日 木曜日

復興計画づくりや住民の合意形成を進めるため、多くの学者が被災地に入っている。
たまたま、そういう人たちの集まりに参加した。

みな一様に、復興まちづくりが進んでいないと、言っていた。
石巻市は24億円の予算で計画策定をコンサルタント会社に発注するらしい。住民合意を進めることなく、まちの復興計画 だけが進められると、彼らは一様に危惧していた。うがった見方をすればバカにしているようにも見えた。やはり「他人事」なのだ。

危惧するだけでいいのか?
住民合意を置き去りにした復興計画なぞ、絵に描いた餅だ。絵に描いた餅に支払うコンサルタントフィーは19兆円の一部、デフレにあえぐ国民の血税だ。しかも、まちづくりが停滞すれば、ますます住民の心は折れてしまう。自宅再建をと思っていた人は災害公営住宅にしようと思うようになるかも知れないし、あきらめてその地を出ていく人も増えるだろう。
専門家として被災市町村の各地域に入って、復興まちづくりをサポートしているのなら、腹をくくってアドバイスすべきだ。
大震災という危機にある被災地を支援する以上は「わが事」として対峙するのが、人の道ではないか。

地域にしっかり入り込んでまちづくりを進め、しんどい目をしている学者さんらはいるに違いないし、先の会合でバカにしているように見えた人たちも、きっとがんばったこともあるのかも知れない。
しかし、腹をくくって被災地に寄り添おうという強い意志を感じることはできなかった。

会合を終える頃に降り出した雨は、被災地の人々の涙のように思えた。

2012年8月ふたたび東北へ
末の松山波越さじ

2012 年 9 月 4 日 火曜日

去年、東北を取材で回ったとき、手土産にしたのは「貞観11年陸奥府城の震動洪溢」(吉田東伍著)復刻版コピーと神宗の鰹でんぶだった。

鰹でんぶはさておき、「貞観11年・・・」は明治39(1906)年に発表された、わが国初の貞観地震・津波についての学術論文だ。
「契りきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山波こさじとは」に着目し、多賀城・八幡の地とし、貞観地震でも津波が達していなかった・・・とした。

http://wind.ap.teacup.com/togo/100.html

ということで、ぜひ見ておきたかった「末の松山」に行った。

住宅街・八幡にある宝国寺の裏手にそれらしき松の木が遠くからでも見えた。
松をめざしていたら、すぐ目前に「沖の石」を発見。
「わが袖はしほひに見えぬ沖の石の 人こそ知らね乾くまもなし」の沖の石らしい。
かつてはここまで海だったのか、今は小さな小さな池の中にあった。

迷い込んだ道でばったり出会った「沖の石」

「沖の石」からわずか数十メートルの坂の上に、二つの大きな松があった。
住宅が密集していて、引きの写真が撮れない。

「末の松山」

「末の松山」から海岸方向にパン

「末の松山」は東日本大震災でも波は越さなかった。

風水害は、かつて起こったところにはまたいつか襲来する。
大震災は、歴史を知り地理を知り、土地の成り立ちを知ることの重さを、日本人に覚醒させたのだから、もう繰り返してはならない。

東北 2012年8月
ふたたび東北へ--NPO地域デザイン研究会で

2012 年 9 月 3 日 月曜日

8月30日、一年ぶりに仙台空港に降りた。

堤防がくずれなかった阿武隈川と亘理町の海岸

堤防がくずれなかった阿武隈川と亘理町の海岸

所属するNPO地域デザイン研究会が、今年の「現地シンポジウム」を東北被災地としたからだ。「現地シンポ」といっても、キーパーソンに現地を見ながら概要等を説明してもらい、意見交換するもので、半分は会員の親睦。なぜ復興が進んでいないのか、いま被災地はどうなっているのか--を知り、学ぶのが目的だ。

もちろん、私ともう一人を除き、参加者は被災地を初めて訪れる人ばかり。東松島市に義捐金を渡して、夜は闇屋のオヤジさんたちと飲むために、他のメンバーより一日早く仙台に来た。

まずは東松島市に行った。
義捐金は、8月末までの本の直販分16万円と、出版の会の残金をあわせて184,800円 。
この日は阿部市長が上京、副市長は他市町に人材ハンティングに行っているため、対応してくださったのは復興政策部の方々だ。
業務量が膨大で職員も足りないと大忙しの市役所で、邪魔してはならないと思いつつ、ついつい復興状況について聞き、30分ほど時間を奪ってしまった・・・。
彼らは「やっぱり人です。復興庁やURの人は熱心にやってくれるので、進んでいます」とのことだった。

浸水している野蒜地区を視察場所として薦められ、素直に従った。

東松島市野蒜~東名

集団移転する野蒜地区

仙石線の野蒜駅

非居住地区に含まれる仙石線の野蒜駅

住めなくなった土地の買い取り価格が決まらねば、集団移転は前に進まないが、帰阪後に阿部市長から電話をいただき、それらの課題をクリアしたと聞いた。

紀伊半島大水害
五條市大塔 鍛冶屋谷&柳谷

2012 年 8 月 27 日 月曜日

鍛冶屋谷と柳谷

8月27日、昨年の台風12号による紀伊半島大水害の現場を見学に行った。
五條市大塔(旧大塔村)の辻堂地区の被災地は、国道168号の道の駅・大塔から約900メートル南。
9月4日早朝に鍛冶屋谷で土砂崩壊が起こり土石流となって熊野川に押し寄せ、国道168号も埋没させた。幸い、避難指示が発令されており、人的被害はなかった。

左側の柳谷でも土砂崩壊したが 、こちらは砂防堰堤が効果を発揮し、家々のあるところにまで土砂は落ちてこなかった。

奈良県が熊野川に入った大量の土砂を取り除く工事をしていた。このあと、25年度末までに、斜面が崩れ落ちないよう、山腹工を施すという(山腹工の工種は今後検討)。

埋没した168号は通行規制されていたが、対岸の迂回ルートであるバイパスのお陰で快適に通行できるようになっていた。=*^-^*=

ルートが複数あることが幸いした。
わが社にあてはめると、お得意が複数あること、営業品目が複数あること・・・か。

なんでも余裕が必要だ。(;へ:)

 

 

3.11国交省リエゾン取材から得た大震災対応 2

2012 年 2 月 25 日 土曜日

NPO地域デザイン研究会会報に寄せた原稿です。

○災害の規模を正しく認識する

情報のない被災地ほど被害が大きい。3.11では陸前高田市、大槌町のように自治体機能が破壊された市町村だけでなく、機能している自治体でも市町村内の被災状況を把握するだけでめいっぱいだった。野田武則釜石市長は「国からリエゾンがやってきて、これは平時ではないと再認識した」と言っている。災害の規模を冷静に認識することこそ、初動の価値判断の要だ。

○土地勘のある職員をリスト化

岩手河川国道事務所は発災後すぐに職員の勤務経験地と出身地をリスト化した。東北地整局から被災市町村へリエゾンを派遣するよう指示されたときは、そのリストから職員の資質等を考慮して選ぶだけだった。

津波で壊滅した気仙沼国道維持出張所では、職員は間一髪、道路台帳だけを持って避難した。車も何もかも失った彼らにパトロールカーを届けるよう東北地整局から指示されたのが、湯沢河川国道事務所。湯沢にはかつて三陸沿岸に赴任したことのある職員は一人だけ、もちろんその職員がこの任務を負った。ナビが狂ってしまっても、山道に入り込んでも、停電で真っ暗でも、目的地にたどりつけた。ちなみにこの職員は翌日、リエゾンとして陸前高田市に派遣されている。

○最寄りの出先に行け

防災住宅に住まう行政職員は、発災後すぐに本庁に行けるが、そうでない幹部職員も本庁に行かねばならない。しかし、交通機関がストップしたときに無理をして本庁に行くべきだろうか?むしろ、最寄りの出先機関の方がよいのではないか。早く行けるし、そこでは通信も電気も確保でき、情報収集も容易だから、指示もできる。所属でなく、住まいを考慮した緊急時出勤先を整理しておくべきだろう。

○メディアは地区分担せよ

「わが市はメディアにあまり載りませんが、犠牲者は1043人、不明者は104人です。」阿部秀保東松島市長からこう聞いたとき、ドキッとした。犠牲者の数は釜石市や南三陸町と同等程度で、名取市よりも多い。にも拘わらずテレビ報道は確かに見た覚えがなかったのだ。

メディアに載らないことを端的に表すのが義援金※2だろう。調べてみると、釜石市2億5000万円、町長が庁舎屋上のアンテナに登って助かった手記を文藝春秋に掲載した南三陸町4億4000万円、名取市2億7000万円に対して、東松島市は9000万円。不遜ながら犠牲者数で割ると、それぞれ23万円、49万円、28万円、8万円弱だ。

広域大災害の場合は、メディア、とくにテレビは同じ地区に重複して入らず、地区分担をすべきだ。彼らは仙台や東北新幹線から行きやすいところ、話題になっているところに団子になって入っていくが、行きにくいところやネタがなさそうな被災地には入っていかない。しかも、宿屋は軒並み押さえるから、医療など肝心の救援部隊は予約が取れない。発災後に災害時報道協定ぐらい頭が回らなかったのか!メディアが反省してほしい点は山盛りあるが、本稿ではこの点のみにとどめる。

※2:市町村に直接送られた義援金(5月27日河北新聞社調べ)

※国交省災害対策室は「災害時ノウハウ集」をとりまとめてHPで公表している。

瀬田川リバプレ隊が滋賀県河港協会賞を受賞
主催者への苦言も奏功か

2012 年 1 月 31 日 火曜日

1月28日、NPO瀬田川リバプレ隊が滋賀県河港協会賞をもらった。

受賞理由は、琵琶湖に注ぐ高橋川と瀬田川左岸の清掃活動を行い、地域に広げているというもので、河川や水辺の活動をしている団体・グループが公開選考で選んだ。

高橋川の清掃については、滋賀県のエコフォスター制度を利用して8年ほど前にはじめた。制度といっても、上限8万円で清掃道具購入できる程度で、その助成金も2010年度には打ち切られ、活動時の傷害保険加入だけがかろうじて残っている。リバプレ隊が毎月25日に清掃しているのを見て、地元の人々も加わって清掃するようになっている。

で、プレゼンしたのはA田さん。ちなみに、リバプレ隊は当該活動の担当者が取材でも何でも受けもつことになっている(T岡理事長曰く”リバプレ方式”)。

A田さんは、「滋賀県のエコフォスターという助成制度を利用して地道な活動をしている団体が500ほどある。そういう活動や団体にもっと目を向けるべき」と、苦言を述べたらしい。想像するに、A田さんは憤って話されたと思う。

同席したT岡理事長は、「他の団体はきれいなことを言っていたから、こりゃ(受賞は)あかんなと、思った」らしい。が、どっこい、受賞した。表彰もA田さんが受け、うれし涙声で受賞の言葉を述べたという。

活動の端緒をリバプレ隊が行い、次第に地域の人々が参加しさらに主体的に活動するようになる--このリバプレ方式もじわりと広げて行くに違いない。

あっぱれ、リバプレ隊!

釜石は奇跡ではない。
防災センターは安全な避難所ではない。

2012 年 1 月 28 日 土曜日

釜石市の防災教育の成果が「釜石の奇跡」と賞賛されている。本欄でも、防災教育を進めた片田教授の講演を少し紹介した。

しかし、野田市長は、「奇跡でも何でもなく、逃げるのが当たり前。奇跡といわれることに地元では違和感を感じている人がいると思う」とのこと。鵜住居地区というと、子どもたちが高台まで逃げ切って全員無事だった一方で、防災センターに避難した人たちの多くは津波の犠牲になった。しかし、この防災センターはもともと指定避難所ではなく、この地区の避難所は高台にある。防災訓練のときにお年寄りや足の悪い人がいるから、訓練はこの防災センターでやらせてほしい--と地区住民からの申し出で、この防災センターで避難訓練をしたのだそうだ。

避難所でもないのに、一度でも避難所として訓練すると、それが「正」になってしまう。名称も「防災センター」だから、安心感を抱いてしまう。

しかし、多くの地域では排水機場や防災資機材倉庫などを「防災○○」という名称にしている。釜石の教訓から、これら施設の名称をぜひ再考して欲しい。